本能寺の変はマキャベリが真実を語っている

八幡 和郎

来月の初めに刊行する新著『歴史の定説100の嘘と誤解  世界と日本の常識に挑む』(扶桑社新書)では本能寺の変についても扱っている。

マキャベリ(サンティ・ディ・ティートによる肖像画:Wikipedia)

私はこの問題についての解答はほぼ同時代人であるマキャベリ(1469~1527年)を読めば分かると思う。マキャベリはチェーザレ・ボルジア(1475~1507年)の礼賛者だが、チェーザレは「自分はすべての状況に備えていたが、1503年に父である教皇アレクサンドル6世が死んだときに、自分も瀕死の床にあることだけは想定していなかった」とマキャベリにいったそうだ。

この事件の原因は、毒を盛られたともマラリアだともいわれているが、教皇が死んだとき、チェーザレも瀕死の重態だったのでボルジア家は没落することになった。

たしかに、政治家でも企業経営者でも、跡取りがはっきりしていて、そこそこの出来であれば、他人がクーデターを起こすことは非常に難しい。

信長は自分が弟の信勝と家督争いをし、ついには殺めてしまうことになったのに懲りて、信忠を確固たる後継者として育てることに全力を挙げた。安土城を築いたときには、岐阜城と織田家の家督を信忠に譲っている。

また、信忠には東国武士の首領としての地位を持たそうとしているのも注目される。武田信玄の娘と婚約させ、秋田城介(出羽守を山形県に置いたのに対して、蝦夷との最前線の秋田県の秋田城の司令官としてこれを置いた)を名乗らしたのは、德川家康に東国をまかすのでなく織田家のイニシアティブを確立しようとしたのだろう。

織田信長(総見寺蔵、Wikipedia)

とくに、武田攻めでは実質的な最高司令官として上々の働きもした。そして、本能寺の変の時、はじめは信忠は德川家康の接待で堺に行くはずだったのが、突然に京都に呼び出されて、小兵力と友に市内にあった。

そもそも、桶狭間の戦いで、名門・今川義元に対して守護代の家老上がりの織田信長が大番狂わせの勝利をしたというが、父親の織田信秀の時代には、今川義元に対して優位に立っており東海の覇者だったのである。

今川義元は、信秀と信長の中間世代である。今川家で義元が無事に継承し基盤を固めるまでの間隙を縫って、信秀は三河でも優位に立った。ところが、信秀の死後は弟との相続争いなどもあって今川優位になった。

しかし、信長は清洲と岩倉の守護代だったふたつの織田宗家や守護の斯波家をひとつずつ押さえ込んで尾張を統一した。とはいえ、人心掌握はまだ不十分だったので、いまのうちにと今川義元が攻めてきたわけである。

信長は尾張の地侍に兵を出すように要請したがサボタージュにあう。しかし、兼業農家的な地侍でなく、フルタイムで働く者たちを出自にかかわらず集めて訓練し少数精鋭の先頭集団をつくっていたので、桶狭間で勝利し、美濃も制圧し、一気に上洛した。その過程で、畿内統治に役立つインテリとして頭角を現したのが明智光秀である。

しかし、天下統一が近づいて、ロートル武将のリストラが課題になってきて、佐久間信盛や林佐渡守が冷酷に追放され、明智光秀の仕事も減った。

『真書太閤記 本能寺焼討之図』(渡辺延一作)

軽武装で信長と信忠が同時に在京したのはありえない油断だった

そうしたとき、信長と嫡男信忠が同時に軽武装で在京し、畿内にある大兵力は明智軍団だけの瞬間が訪れた。私は信長のビジョンとしては、信忠を将軍にし、自分は足利義満のように太政大臣から准三后あたりとして天皇の安土行幸を迎えるイメージを描き、一緒に参内するとか根回しをしようとしていたのでないかと推測している。

朝廷が黒幕というのは、正親町天皇は信長を支援し、早く上皇になりたかったので殺す動機がない。

光秀が思いつきだったのは、決行後に報せをあちこちに送るのが行き当たりばったりだったことでも分かる。たしかに、光秀は機密保持のために、あらかじめ眼回しをしなかったのは当然であるのだが、もし、計画的なクーデターだったら、そのあと誰にどうやって知らせて、協力を得るか綿密に準備しておくはずなのである。

ところが、足利義昭への連絡にしてもすぐにやったわけでない。娘婿の織田信澄への連絡が遅かったので、これも丹羽長秀や織田信忠にみすみす殺されている。これをみると、やはり、信長と信忠が両方とも軽武装で在京して、自分以外に畿内に大兵力はいないという僥倖に遭遇して出来心を起こしたとみるべきだ。

四国攻めをめぐり、三好家を同盟者にしようという信長と長宗我部を選びたい光秀の意見の対立は確かにあったが、主たる動機としては弱すぎるのである。