新型コロナウイルス狂騒曲:民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず

2020年03月01日 06:00

ある意味「対岸の火事」だった中国発の新型コロナウイルス問題だが(日本でもダイヤモンド・プリンセス号騒動があったので、せめて「岸壁の火事」と言うべきだろうか?)、一昨日の2週間のスポーツ・文化イベントの自粛要請、そして、昨日の総理による全国の小学校・中学校・高校への休校要請で、潜在的不安に怯えていた日本国民の尻に一気に火がついた感じがする。昨晩から色々なSNSを見ているが、各所で色々な意見が飛び交い、一部、炎上している印象だ。

新型コロナウイルスの電子顕微鏡写真(国立感染症研究所サイトより)

筆者は、医師や研究者でもなければ、防疫・医療政策の専門家でもなく、今回の日本政府の一連の動きについて、確信をもってこれを批判も称揚も出来ない。ただ14年近い官僚経験を踏まえて強調したいのは、ほとんどの施策において、国民全員が納得する方向を打ち出すこと、即ち、100点満点を取ることはあり得ない中、まずはその施策の妥当性を信じてみたい、ということだ。為政者は、賛否両論が渦巻くことを前提で苦渋の決断をしているわけで、陸奥宗光・若泉敬的には「他策なかりしを信ぜむと欲す」という気持ちで決めていることは間違いない。

自分が得ている情報やそれに基づく意見が相対的であるという最低限のマナー・理解もなく、主には未知の事態への恐怖から「民主主義の権利だ」とばかりにギャーギャーと底の浅い自説を得意げに開陳して多くの人が怖れを紛らせている状況に、日本人の劣化を見て辟易しているのは私だけであろうか。

100点満点の施策は難しいと先述したが、例えば今回の休校要請に関しては、「共働きや一人親の家庭が困る」、「授業の振り替えはどうするのか。学力低下は大丈夫か」、「結局遊園地等に行くなど、集まって遊ぶので感染リスクは下がらない」、「全国一律で休校にする必要があるのか」など、政府は現場が全く分かっていない、との批判が渦巻いている。そもそも論として、「こういう事態になる前に、アメリカや台湾のように、水際で中国人を全員入国禁止にするべきだった。今からでもやるべき。」という批判も根強い。

一方で逆に、「子どもが学校で感染する恐怖から解放されてホッとしている」、「現在の死亡率は低いが、今後ウイルスが強毒化する場合には子どもからの可能性が高く、小中高を休校にするのは理に適っている」「春休みが間近であり、共働きの家庭だって何とかできるはず」などの政府への賛成意見も散見される。

なぜ水際で中国人を全員入国禁止にしないのかという政府批判に対しても、「そもそも水際で全て止めるのは無理だし、日本は特に経済的損失が甚大になる。既に倒産企業も出始めている。優先すべきは世界的景気後退を少しでも防ぐこと。インフルエンザでの例年の国内死亡者数は約1万人とされており、新型コロナウイルスはそこまで騒ぐ話ではない。」などの擁護論もある。

専門家の見解も色々と割れている中、こうした状況でほぼ全員から支持される政策を打ちだすことは、どんな天才政治家でも無理であろう。

さて、今回のエッセイの副題は、論語の有名な一節だが、ここに挙げた意味を、上記の新型コロナウイルス狂騒曲と絡めて述べてみたい。

「民は之(これ)に由(よ)らしむべし。之(これ)を知らしむべからず」という孔子の言は、政治の要諦を表すものとして有名だが、論語の前近代性の象徴、すなわち民衆を愚弄した反民主主義的な言説として批判されることも多い。「民衆には、情報を隠して(=これを知らしむべからず)、政府に依存させよ(=よらしむべし)」とは何事だ、という解釈だ。まさに、今回の政府の動きの批判で良く用いられる論法の一つである。何か不都合な情報を隠して(=情報操作をして)、政策誘導しているのではないか、と。

しかし、最後の「べからず」を「当為」ではなく、古文法の「可能」と解釈すると風景が変わる。「民衆には、全てを知らせることは出来ないので(=知らしむべからず/知らせることは無理なので)、政府を信頼してもらうしかない(=よらしむべし)」との解釈だ。特に一般民衆は、情報アクセス能力その他から全てを知り・理解することは無理なので、「政府はベストの選択をするはず」という信頼がなければならない、ということだ。

大ざっぱに書けば、中国政府が取っているアプローチは上の解釈であろう。人心を惑わさないという大義名分の下、情報統制をして(突然アカウントが消される事態もある模様だ)、都市封鎖など果断な政策誘導をしている。一方、日本をはじめとする多くの民主主義国家では、下の解釈に依るしかない。即ち民主主義国では、インターネット上やメディアなど、各所で色々な人が百家争鳴的に様々な情報を流しており、そのすべてを理解し取り入れて自説を構築することは出来ないから、自ら選んだ政治家が主導して運営する自国政府を信頼するしかない。

ここで鍵になるのが、政府への信頼の強さだ。下の解釈から信頼を除くと、言うまでもないが最悪の事態となる。生じるのは「混乱」だ。これこそが民主主義の脆弱性の根源である。

私見では、今回の騒動で露見しているのは日本の民主主義の弱さだ。「観客民主主義」と揶揄される日本の民主主義は、社会にコミットする主体的な個人からなる理想形(≒共和主義)とはほど遠い。自分の身を自分で守らんとする覚悟も弱く、自分たちで政治家を主体的に選び、自国政府を創っているという自覚も弱い。アプリオリに存在する「公」など信頼できない、という前提に立ち、銃規制にも国民皆保険にも反対する人の多いアメリカなどとは違う。自分の身をまずは自分で守ろうとし、自分の資産を極力自分で構築するのは当たり前ではないか、と考える国民が選ぶ政治家や政府への信頼・意見具申とは異質のものを感じる。

「疾風に勁草を知る」という言葉もあるが、大きな意味では、日本政府としても如何ともしがたい自然発生的緊急事態に対して、まずは自分で、そして、みんなで立ち向かおう、という姿勢が大事だ。批判は建設的でなければ意味がない。恐怖におびえるあまり、飛び交うデマなどの情報に基づき「やれ政府がいけない」「総理は何をやっているんだ」と目に入る現実だけを見て悪態をつくのは、親の庇護の下で駄々をこねる幼児と変わりない。そう、子どもは親を選んでいない。

自分が選んだ政治家や彼らが運営する政府を信じて支えることを基本としつつ、自ら信じられないと判断した場合には別の政治家・政党に信頼を寄せ、それも無理であれば、自ら(政治に)立つ覚悟を持った個々人が社会をリードする状況こそが、民主主義が機能する原初的状態だと思う。為政者の決断が誤っていたら、辞任するなどして責任を取ることは当然の前提だ。

引き受ける覚悟のある個人が社会に見当たらず、緊急事態に右往左往しながら、一億総批判が燃え広がる情けない社会に日本はなって欲しくない、と今回の新型コロナウイルス狂騒曲を横目に眺めながら、強く願う次第である。

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朝比奈 一郎
青山社中株式会社 筆頭代表(CEO)

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