アフター(ウィズ)コロナと日本の戦略①情けない日本のメディア

2020年05月01日 20:00

1. 情けない日本のメディア・ネット空間(ちょっと長めのメディア批判)

一貫性のないメディア・炎上系政治芸人

「さすがにくだらない批判ばかりで飽きた」
最近の私の心象風景を一言で表すとこうなる。現在の状況を踏まえるとやむを得ない面はあるものの、さすがにコロナ狂騒曲とも言うべき見るに堪えないメディア・ネット空間に辟易しているのは私だけではないと思う。

写真AC

政府の緊急事態宣言発出については「遅い」、政府のマスク配布(“アベノマスク”)についても「ふざけるな」、緊急経済対策については、「少ないし、遅い」の大合唱だ。確かに、一つ一つの批判については首肯できる部分もある。また、これら政府の主要対策に関する「反射神経的・即物的批判」を超えて、私としても、「もっと検査数を増やして、感染者を回復まで区別できないのか」「各種手続きのテクノロジー導入による迅速化、特に医療・教育の大胆なオンライン化を進めるべき」等々と感じており、手放しで現政権・政府を褒めるつもりは毛頭ない。

ただ、『職業としての政治』でマックス・ヴェーバーが説くまでもなく、政治は結果が重要だ(“結果責任”)。すべてが政治の影響ではないにせよ、現時点では、わが国の人口当たりの死亡者数が相対的にかなり少なく済んでいることは確かであろう。意見を言うな、ということではないが、自分たちが民主的に選んだ政権が、それこそ民主的に(いろいろな意見・事情を踏まえながら)、最善だと思う策を実施していることを信じるところから始め、ある程度のところで結果を見て、「さて、これはダメだ」と思ったら、政権を変えるしかない。

OKY(おまえ、来て、やってみろ)とは良く言ったものだが、実際に「やる」のは本当に難しいのだ。自分が代わりに務める覚悟もなく、代わりになる人たちを応援する気概もないままに、文句だけを言うのであれば、駄々っ子と変わりない。

単に未知のウイルスに対して、言いようのない不安を抱え、そこから来る不満をメディアやネット上で爆発させているだけだとしたら更に情けない限りだ。同じ人間である政治家や政府の担当者にとっても、新型コロナは未知のウイルスであることを忘れてはならない。

それにしても、わが国の主要メディアの、その一貫性のなさ・無節操ぶりはどうだろうか。例えば、2015年の安保法制の議論、そして、いわゆるモリ・カケ(森友学園や加計学園を巡る騒動)が勃発した際のメディアの主要な批判は、「安倍の独裁ぶり」ということであった。「安倍一強」「官邸独裁」「独裁による忖度(そんたく)政治」「強引な政権運営」と、要すれば、「もっと人の意見を聞いて、民主的にやれ」ということであった。

それがどうであろうか。最近のメディアは手のひらを返したように、「もっと断固とした措置をとれ」「早く、早く」「財政なんて関係なく、バンバンと出せ」と、様々な意見があることを無視しろと言わんばかりに独裁的政治を求めている。かつて白洲次郎が「プリンシプル(原則)のない日本」と喝破したが、どの口がそういうのか、と主張の軸がない。

したり顔でそう主張する人(メディアが連れてくる有識者。いわば視聴率を稼ぎたいメディアとの共依存関係。)も固定化してきていて見飽きてきた。今がチャンスとばかりに「自分は決断力があります」と声高に叫ぶさまは、まるで「政治ゴロ」だ。放火魔のような炎上系政治芸人に騙されないようにしたいものだ。

同調圧力

思うに日本のメディアは、異様に「同調圧力」が強い。今回のコロナ禍は、確実に効く治療薬やワクチンがないので大変ではあるが、冷静に考えればすぐわかるように「重症化する割合や死者の数に鑑みて、ここまでヒステリックに騒ぐ話ではない」というメディアの主流とは違う意見があっても良い。そうした意見を持つ人がメディアに出てくることは稀であるし、出ても同調圧力の強い日本メディアのまな板の上で晒し者にされるだけなので、そもそも出づらい。

日本の年間の交通事故の死者は昨年(2019年)は記録的に少ないが、それでも3,215人である(四半世紀前の1990年代半ばまで1万人超。1970年頃は1万5,000人超)。流行してから2~3か月のコロナ禍での死者は400名足らずだが、死者を出さないためにも断固たる措置を取れとメディアで大騒ぎする“有識者”で、「自分は自動車に決して乗らないようにしている」とか、「今すぐ政権は断固として自動車使用を禁止すべき」と言っている人は寡聞にして知らない。

世界では、ノルウェーのような強烈なロックダウンを実施している国もあれば、スウェーデンのように、「治療薬がない以上、集団免疫を獲得する戦略に出る」と、かなり緩い自粛にとどめている国もある。

4月に入ってもスウェーデンではコロナ前と変わらぬ風景(Nyman/flickr)

米国の各州(英語だとstate。「国」と訳されることもある単語)の中には、経済的な死こそが深刻ということで、経済優先のトランプ大統領もさすがに懸念するほどに営業規制が緩和されたジョージア州(ボーリング場、理髪店等もOK)のようなところもある。危機の山を越えた中国はもちろん、まだ深刻なはずのイタリアやスペインでも経済活動再開の動きが様々に出ている。

民主主義の実現には、様々な意見が前提にあることを肝に銘じたいところだが、日本のメディアにはその姿勢が乏しいと言わざるを得ない。

日本の対応はダメ? よくやっている?

繰り返しにはなるが、日本は、ほとんど強制力のない「緊急事態宣言」だけで、強制的な行動制限もせずに、多くの国民の協力を得て民主的に、国際的に比較していい結果をここまで出している。

少し格好よく書けば、「民主的にバランスを取っている」わけだ。経済活動が止まってしまうと困る人、歳出余力の少ない国家財政、そしてもちろん、国民の健康(安全・安心)。足して3で割れば、今の日本のような一種「あいまいな」(≒バランスを重視した)対応となる。民主的とは、基本的にはそういうことではなかろうか。

もちろん、これが本当の「戦時」であれば、国民生活をより極端に制限するなど、「果断」な対応が必要であろう。日本にその備えが出来ているか、といえば(緊急事態対応や有事法制等)、はなはだ心もとないが、それはまた別の議論だ。

外出自粛で4月は金曜夜の渋谷ももぬけの殻(nagi usano/flickr)

今回のコロナ禍に話を戻せば、そもそも、ウイルスとの戦いは「戦争」ではないし、先ほど、交通事故との比較をしたが、歴史的・あるいは他の事象と比べるなど、総体的(相対的)に見れば、過度に極端な対応は必要ないとも思える。私自身は、恥ずかしながら「ビビり」であるので、会社もすぐに全面的にテレワークとし、家族も私も必要不可欠な最小限の外出しかしないようにしているが、個人としての行動と社会の在り方は別問題だ。

人は、不安な状態に置かれれば置かれるほど「果断」な歯切れの良い言説・行動に惹かれるが、大事なのは、本当に社会として、そこまでの対応・極端な対応が必要かどうかをきちんと見極めることだ。ファシズム等の歴史を振り返るまでもなく、歯切れの良いことほど危ないことはない。

もう少し、我々は、現在の日本の対応、更にいえば、自分たちが自分の手で民主的に作り上げている国や社会について、責任と同時に自信をもって、これを肯定的に考えても良いのではないだろうか。

そういう前提で、以下、紙幅の関係で手短にはなるが、建設的に、今後の世界の方向性と日本の針路について、社内外での多くの方々との議論などを元に、自分の頭で考えてみたい。ギャーギャーと目先の話で騒ぎ立てるメディアやネットの言説には辟易した。軸のないメディアや炎上系政治芸人に惑わされずに、冷静に考えてみたい。

②に続く

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朝比奈 一郎
青山社中株式会社 筆頭代表(CEO)

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