止まらなかった陽性者拡大~ 日本モデル vs.西浦モデル2.0の正念場④

篠田 英朗

前回に記事を書いたときに、7月末の新規陽性者数に注目したいということを書いた。正直、東京で新規感染者の増加が止まるかどうかの期待があった。しかし、残念ながら、7月最終週に逆の傾向が見られて、7月は終わった。この様子を、実効再生産数の動きで見てみよう。

7月上旬に高い数値を示しながら、その後は緩やかに鈍化する傾向を見せていたにもかかわらず、実効再生産数1を下回るかもしれない直前の7月下旬で、反転した様子を示している。

4連休のところで反転した形になっているが、「4連休中に会食やアウトドアなどで外出した若い人の感染が多くみられる」(都の担当者)と伝える報道も見られた(参照:テレビ朝日)。

この観察が正しいとすると、魔の4連休だったと言えないこともない。が、その程度のことはいつでも起こるということだ。実効再生産数を1以下にするのは、簡単ではない、ということなのだろう。

結果的には、7月の東京の動きは「西浦モデル2.0」にそったものとなった。4月と同じ陽性者の拡大が7月に発生するという点に特化した意味での「西浦モデル2.0」は現実のものとなった。

ただしもちろん、重症者数や死者数は、依然として抑え込めており、「日本モデル」の努力は、まだ続く。「日本モデル」は、最初から重症者・死者数の抑制を優先的に目指しており、そこが破綻しているわけではない。

だが7月のレベルの行動変容では陽性者数の拡大を止めることができなかったという経験は、受け止めなければいけないだろう。

検査数の大幅増加などがあり、4月の陽性者数と7月の陽性者数を絶対数で比較することは難しいし、あまり意味がないと私も思う。ただし、7月に感染拡大の傾向があったこと自体を否定するのも難しい。検査数を増大させて無症状者を数多く拾うようになったといっても、発症者が検査を受けなくなったわけではない。7月の陽性者数にも、ある程度のトレンドが反映されていると考える方が自然だろう。

 陽性者の拡大を放置し続けていれば、いつかどこかで決壊が起こる。増加を止めて、「ダンス」を踊る状態にもっていけるかどうかが、試金石なのである。7月のレベルの行動抑制では感染拡大を止めれなかったことが結果として明らかだとすれば、政策当局者に新たな手段をとることが要請されるのは仕方がないだろう。

今後も「西浦モデル2.0」の通りに進むと、「人と人との接触の削減」措置を導入せざるを得なくなる。そのため多くの方々にとって4月の「緊急事態宣言」が成功体験として思い出されるようだ。

西浦氏(FCCJ公式YouTubeより)

だが、今も小池知事の午後10時以降の自粛の要請に従わないと表明している飲食店があると報じられている。新型コロナによる死亡リスクが、高齢の基礎疾患の保持者と、健康な若者では全く異なることも、すでに広く隅々にまで知られている。あらたに行う緊急事態宣言が、4月と全く同じように進むかどうかは、不明だ。強制力のない自粛に頼る緊急事態宣言は、国民の間に団結心のある危機意識がある場合には効果が高いだろう。だが、そうでなければ、いたずらに自粛警察の活動だけに勢いを与えるだけで、ただ産業間対立や世代間対立を助長するだけで終わってしまう可能性も相当にあると思う。

私としては、これまでの「日本モデル」の発展延長線上でも、まだまだやれることが沢山あるとは思っている。たとえば「三密の回避」は、広く知られるようになったが、「密閉」の回避が十分に継続的な「換気」を必要とすると解釈できている人が実はまだ少ないことが、7月のクラスター例などから明らかになった。「三密の回避」提唱の国として、残念だ。実際に起こった感染例を豊富に紹介しながら、「三密の回避」をどのように日常生活に応用していくべきか解説するような試みが、もっと情報をもっている当局から出されていいのではないか。

今の重症者の増加が低い間に、新型コロナ特別措置法を改正し、緊急事態を裏付ける憲法改正もして、本当の危機に対する備えを取っておくべきであることも当然だ。

野党は、内閣支持率の低下だけを見て気勢を上げる政党から脱皮するためには、建設的な議論を行って、法改正と憲法改正に協力すべきだ。一部報道では、自民党も新型コロナ問題を国会で扱うことに及び腰だとされる。論外だ。今のうちに、次の一手の準備を、挙党一致で行っておくべきだろう。

こう言うと、野党系マスコミ勢力は、改憲は必要ない、必要なのは全国民毎週PCR検査だ、といった夢想的なことを主張する。マスクの配布が遅い、定額給付金の振り込みが遅い、と批判し続けている方々が、なぜ全国民毎週PCR検査を、天文学的な財政負担や反対者に対する取り締まりもなく、とにかく何の混乱もなく、実施することができるなどと主張することができるのか?

憲法9条論争と同じだ。悪いのは憲法9条(を絶対平和主義の条項と解釈する憲法学通説)ではない、悪いのは現実だ、現実が憲法学通説に従えばいい、という論法と同じではないか。悪いのは全国民毎週PCR検査の提案ではない、悪いのはそれに円滑に実施しない現実だ、現実が自分たちの案に従えばいい、という論法なのである。

「中国にできた、日本にできないなら、日本は途上国だ」、といった昭和世代の叫びも、聞き飽きた。中国は、全国民を完全管理している21世紀の権威主義超大国なのだ。日本とは違う。現実を受け止めるべきだ。

ベストセラーになっている門田隆将『疫病2020』でも引用されている「日本モデル」の参謀役といっていい押谷仁教授の言葉を思い出してみよう。

「日本に住む全員を一斉にPCRにかけないといけないことになる。それは到底できないので、戦略としては、クラスターを見つけて、そのクラスターの周りに存在する孤発例を見つけていく。そしてその孤発例の多さから流行規模を推計して、それによって対策の強弱を判断していく、という戦略になります。…

多くの感染者が軽症例、もしくは症状のない人だということを考えると、すべての感染者を見つけなくてもいいということになります。インフルエンザとかSARSといったウイルスとまったく違うのは、この多くの感染連鎖が“自然に消滅していく”というウイルスだということです。…

感染者が急増している状況の中で、PCR検査が増えていかないという状況にあるのは明らかに大きな問題です。このことは専門家会議でもくり返し提言をしてきて、基本的対処方針にも記載されていることです。いくつかの地域では自治体、医師会、病院などが連携して検査や患者の受け入れ体制が急速に整備されているという状況です。そのような地域では事態は好転していくと私は信じています。」(163、167~168頁)

押谷仁教授(東北大HPより)

「日本モデル」が重症者の抑制を優先目的にして進んで生きているのは、最初期の段階で押谷教授がそれが理論的に最高だと判断したからではない。

2月下旬に押谷教授らが「専門家会議」で招集されたときには、もう感染拡大の封じ込めそれ自体は不可能だった。だから、今のやり方を、現実の範囲内で最善の方法を目標として設定したのだ。

門田氏が言うように、2月下旬の段階ですでに、「日本は、ウイルスを可能な限り追い、それを潰していくという台湾のような戦略は到底採れない状況になっていた」(166頁)からなのである。

2月下旬の所与の現実の中で、適切に最善の「日本モデル」を設定し、努力を積み重ねてきた押谷教授らに対して、「どうやったら感染者をゼロにできるのか道筋を示せ、俺の全国民毎週PCR案は、非現実的で夢想的だが、机上の空論としては感染者をゼロにできる案だ」、などと威張ってみせることには、何の意味もない。

最近、「旧専門家会議」「分科会」メンバーに対する風当たりも強まってきたようだ。しかし、私自身は、7月の現実を受け止めたうえで、引き続き頑張っていく押谷教授ら「旧専門家会議」「分科会」メンバーを、引き続き支持していきたい。