白日の下にさらされた党派的運動集団「憲法学者」

篠田 英朗

東京・六本木の日本学術会議(編集部撮影)

日本学術会議の問題をめぐり、日本の恥部がいくつか露呈したように感じている。その一つが、「憲法学者」なるものの存在だ。

日本学術会議は、文系学者が会員の3分の1を占めているだけでも不思議なのだが、そのうちの2割以上が法学者にあてられてきたことも不思議である。さらにその法学者のうちの少なくとも3分の1程度が共産党系の民主主義科学者協会法律部会の元理事などで占められてきたのは非常に不思議である。

従来から共産党に近い学者が多いとされる「憲法学者」集団は、日本学術会議の既得権益に深く入り込んだ集団である。ひょっとしたら、ここはあえて黙っておこうという配慮が働くのかと思えば、全く逆になっていることに茫然とする。

「憲法学者」は、極めて統制の取れた運動家ロボット集団のように「学問の自由を守れ」といったことを叫び、何か人類史に残る弾圧でも起こったかのような仰々しい言葉を並べて自らの不幸を嘆き続けている。

多少なりとも関心がある者には自明であったことが、今回の事件でさらに広く露呈したのではないだろうか。日本社会における「憲法学者」なる存在が、単なる党派的運動家たちの集団でしかない、ということが。

なぜそう言えるのか、三つの観点から説明しよう。

第一に、憲法学者は、議論よりも運動を重んじる。百歩譲って、日本学術会議問題に学問の自由の論点が関わる点があるとしよう。しかし世間一般では、多くの人々が、私も含めて、学問の自由の論点は関係がないと公に述べている。学者ではないが、日本の内閣総理大臣も、内閣法制局の確認を得て、そう述べている。それなのに、「これが学問の自由の侵害であることに一切異論の余地はない、憲法学者の間に一切の異論はない、だから菅政権は退陣せよ!」といったことを記者会見を開いて集団で主張することに余念がないのが、憲法学者なる極めて特殊な社会集団である。

百歩譲って憲法学者であれば必ず100%そのように信じている人以外には存在していないのだとして、一切何ら異論を唱える議論の余地がなく、それを認める機運も絶対にない、としたら、本来であれば運動ではなく議論を尊重するはずの学術専門家の集団として、相当に異常である。

第二に、全体主義カルチャーが半端ではない。憲法学者と名乗るのであれば全員が同じ意見でなければならない、という統制がすさまじい。しかもその内実は一握りの東大出身の人物の発言によって左右されている。学会内に争いがあるとすれば、その全体主義集団のボスの跡目争いで「俺が」「いや俺だ」がある程度で、果てしない「マウント」競争があるだけだ。このような異様なレベルの権威主義に全体主義を組み合わせた学界は、日本でも相当に特異で異常だと言わざるを得ない。

第三に、学会の全体主義的総意として運動方針とされる内容のイデオロギー性が常にあまりにも明らかすぎる。世間一般で言うところの左翼系である。共産党系である。それ以外の意見に学界の総意がまとまる可能性がない。あらゆる社会問題について、左翼系の意見以外に憲法学者の集団から何らかの意見が聞かされることはない。恐らく異論は、認知される前に、学界から排除されるだけなのだろう。そもそも鋼鉄の人事システムのために、異論を公にしながら、大学のポストを得て憲法学者なるものになる可能性は乏しい、ということだろう。

恐るべきは、「憲法学者」と特定の左翼系メディアの結びつきが完全に固定化されていることだ。「憲法学者」は特定メディアだけが真のメディアであるかのように語り、特定メディアは憲法学者の全体主義的に統制された意見だけが「学者の意見」であるかのように語る。団塊世代がまだ存在している間だけの時限付きビジネスに一つの学科に属する人々全員が群がる様子には、非常に強い印象を受ける。

木村草太氏(衆議院インターネット中継)

木村草太・東京都立大学教授の例を取ろう。固定ファンに向けて、自らの絶対無謬性を語り、自らが「ミスター憲法学者」であるかのように振る舞うことに余念がない。そして、自らと違う意見を表明する者を徹底的に見下して卑下する攻撃的な言葉を羅列することに異様な執念を見せる。

木村草太教授 「解釈と言い張って法を無視する権利ない」…政府に厳格な運用求める(デイリースポーツ)

木村教授は、学術的に言って、何の専門家なのか。学会報告と称して、三国志の登場人物になぞらえて自分の意見と違う者を揶揄する冗談のような報告などを、堂々と公にしているのを見ると、真剣な疑問を感じざるを得ない。(木村草太「集団的自衛権の三国志」全国憲法研究会(編)『憲法問題28』[2017年])。

十分な数の固定ファンがいるだろう。木村草太教授には、早く大学を辞めて、手ごろな政党から立候補し、堂々と政治家に転身してほしい。