日本医療の根本の問題とは
我が家の食卓にはテレビがない。テレビ離れが著しい私だが、それでも日々暮らしていればふとテレビ画面が目に入ることもある。ラーメン屋の棚の上にあるテレビや訪問診療で訪れた先の施設やご自宅のテレビなどだ。そして、そんなテレビ画面に映っているのは、皆さんご存知、「コロナ!コロナ!コロナ!」の大合唱である。
本来なら個人情報満載なため撮影など許される空気ではない重症患者用ICU病床の中の様子や、そこでの激務を語る看護師さんの声が、ニュースやワイドショーで流されている。コメンテーターは「医療崩壊」を声高に喧伝する。そういえば、日本医師会長も「感染者がこれ以上急増すれば医療提供不可能に」なんてことを言っていた。
私には、これら映像や言説が日本の医療の本当の問題を伝えているとはとても思えない。もっといえば、この「コロナ禍」の今こそ、「日本医療の根本の問題」を国民に考えてもらう最もいい機会なのに、「医療崩壊」を叫べば叫ぶほど、それをすっぽり覆い隠してしまっている、とさえ思っている。きつい言い方かもしれないが、つまり害悪でしかないと思っているのだ。以下、その理由を述べたいと思うので、最後まで読んでほしい。
まず事実関係から確認しよう。
日本の医療資源に問題はない
あまり知られていないかもしれないが、実は日本は世界一の病床(人口あたり)保有国である。これは実に米国・英国の約5倍にのぼる。重症者に対応できる急性期病床数でも、日本はOECD加盟国の中で多い方である。
また、日本はCTもMRIも世界一持っている。つまりハード的には全く問題ない医療資源を持っているということだ。
しかし、ハードだけでは医療は出来ない。医療従事者などのソフト面はどうなのだろうか。医師数は人口千人あたり2.5人とOECD中ではだいぶ少ない方、ただ、看護師数で言えば人口千人あたり11.8人と先進国の中でも比較的多い方だ。まあ、確かに医師数・看護師数などのソフト面は控えめに言って少し課題があるのかもしれない。では、これが医療崩壊に至る根本的問題なのだろうか。もちろんそうではない。
なぜなら、今回のコロナ禍、感染者数・死者数(人口あたり)を国際比較で見れば日本は欧米と比較して圧倒的に少ないからだ。その数はざっと見積もって約50分の1である。スポーツの試合で言えばダブルスコアは大差だ。50倍のスコア差というのはダブルスコアどころではない、想像を絶するほどの大差である。なぜそうなっているのかについては諸説あり、確かなことも分かっていないのでここでは置いておくとして、とりあえず現状の日本は、ある意味奇跡に近いくらいの幸運に恵まれているということを事実として認識しておいてほしい。ちなみに欧米はこの日本の50倍の被害でもなんとか医療崩壊せずに凌いでいる。
たとえ医師数などのソフト面で多少の不備があっても、患者数・死者数においてこれだけの差があるのなら、この幸運はソフト面の不備を補ってあまりあるものだろうということは容易に想像できる。
以上を簡単にまとめると、
「国際比較の上で日本は医師などの医療従事者は若干少なめであるが、米英の5倍の病床数などのハード面は世界一整っており、しかも何より感染者数・死者数が50分の1と大差がついている」ということだ。以上、データとしてのFactである。
では、以上のデータを解釈・考察しよう。以下は、Factに基づいた個人的な考察である。
上記のような50倍の差。こんな幸運に恵まれているのにもかかわらず、なぜ日本において医療崩壊が問題になるのだろうか。
圧倒的な機動性の低さが問題
その最大の要因は、一言で言えば「圧倒的な機動性の低さ」である、と私は思う。
機動性の低さとは何だろうか?例えば病床が日本の1/6しかないスウェーデン(しかも人口あたり死者数は日本の40倍)のICU病床の推移を見てみよう。以下の通り、コロナ感染真っ只中の時期にはICUを一気に増やし、そして感染が縮小した夏には作ったICUを速やかに元に戻している。これはスウェーデンだけでなく、ドイツでもそうだと聞いている。欧米ではこういうことは当たり前に出来ているのだろう。
一方、日本はコロナ対策病床を整備するのにも非常にゆっくりで、しかも統計を見る限り作ったものはそのまま減らさないようだ。感染症の波というものは、ドーッと来てサ−っと引くものである。各国がその波に合わせて臨機応変に病床を変換し、波が去れば元に戻して臨機応変に対処しているのに対して日本の機動力の低さが大いに浮き彫りになっているのだ。これでは感染症のパンデミックに対応できるわけがない。
「機動性の低さ」と言う意味では、横の連携も非常に希薄であると言わざるを得ない。大阪府の看護師が足りないというニュースが出ているが、これもまさにその典型例だ。
「大阪コロナ重症センターでは、必要となる看護師130人のうち50人ほどのめどがついて居ない」ということだ。これを見る限り確かに大阪の現状は「看護師不足」なのだろう。ただ、県をまたげば、まだまだ余裕のあるところはある。12/2時点で鳥取県は重症病床47床あって患者はゼロ。和歌山県は40床で患者は1名だ。
海外では、スタッフ移動よりリスクの高い「患者の搬送」まで国境を超えてしているというのに、なぜ日本はスタッフが県すら超えられないのだろうか?一部は県を超えてスタッフが移動しているとも言うが、おそらく医療の機動性が高い海外の国であれば、看護師不足が逼迫して記者会見をする前に容易に解決できている話だろう。
また、名古屋市の河村市長は「病床の9割が埋まっている。病床を増やしたいが調整は難しい」と言っている。これもおかしな話で、そもそもが人口200万の名古屋市でコロナ病床を180床しか準備してなかった医療行政の不作為の問題でもある。もちろん、危機時にドーッと整備ができる体制を作っておけばいいのだが、今の行政はその準備も出来ていない。しかも12月2日発表の厚労省の資料では愛知県内にはまだ対コロナ病床897のうち入院患者は382人、つまり空床が500以上あるのだ。しかも重症は県内で30人だけだ。県内で都合をつければまだまだなんとかなるレベルの話にしか見えない。
つまり、日本は病床やスタッフを機敏に増減させられる「縦の機動性」もなければ、それらを充足地域から不足地域へと横に移動させる「横の機動性」も不足しているのである。
これは、危機時に人材を柔軟に配置することが出来ていない、またその準備をしてこなかった医療行政の問題だろう。地方自治体・厚生労働省・政治家の方々など、医療行政を担当する部門の方々にはこのことをしっかり認識していただきたい。
医療を競争原理任せにしてきた国民の意識にも責任
ただ、医療行政ばかりを責めるのも的外れだと思う。というのも、この問題の背景には「医療を病院同士の競争原理に任せてきた、それで良しとしてきた国民の意識」にも責任があるのだ。
なぜ日本の医療業界は縦の機動性も、横の機動性も乏しいのか。それは、日本の病院の8割が民間で、基本的にお互いがライバルであること、そして国の指揮命令系統が及びにくいということが大きく影響しているだろう。ちなみに、先進国の病院は多くが公立もしくは公的病院で、民間病院は僅かである。
もちろん、平時においては民間の競争原理のおかげで世界一の医療クオリティを出せていた、という素晴らしい側面は否めない。しかし、その「競争」の思想は病院を基本ライバル同士としてみなしてるわけだ。今や日本に2割しかない公立・公的病院すらその競争に巻き込まれてしまっている。それをいまさら危機時だから、迅速に連携しろって言われても、なかなかすぐには出来ないし、どう動いていいのか、その手法もわからない、というのが現実的なところだろう。
そもそも医療というものは、国民の安全を守る「安全保障」と言う要素が大きい。そういう意味では、警察や消防・軍隊と同じような位置づけにあると言っていい。医療業界の収入の原資の8割が保険料や税金という「国民みんなから集めたお金」であることも、それを如実に物語っている。そんな安全保障の分野である医療業界を、我々は病院同士の自由競争に任せてきて、「よし」としてきたわけである。確かに、平時にはその競争原理で効率的に運用できた面もあるが、このパンデミックと言う危機時においてライバル同士という関係性が機動力を大幅に失わせているとするのなら、我々は医療というものの公共性を、もう一度見直すべき時期に来ているのかもしれない。
今の日本ははまだ幸運にも欧米に比して50分の1程度の被害で済んでいるが、もし今後今の50倍の被害が来たら、このライバル関係という病院体制で日本医療はしっかりとした対応できるのだろうか。今からでも遅くはない。出来ることは山ほどあるだろう。幸いにも神様は日本に50分の1という猶予期間を与えてくださったのだから。
(今回は、医療崩壊をめぐるその他の問題、「90代の老衰症例でもICUに入れてしまう」というようなACP関連の問題や、2類感染症相当のためコロナ病床以外のICU病床が使えないという医療システムの問題は割愛しました。次回以降で書きたいと思います。)
森田 洋之 医師・医療経済ジャーナリスト
夕張に育ててもらった医師・医療経済ジャーナリスト。