邪馬台国まで「1万2000余里=観念的数字説」を斬る --- 浦野 文孝

寄稿

私は11月22日のアゴラ「邪馬台国九州・畿内並存説~魏志倭人伝の矛盾を解く」に書いた通り、魏志倭人伝に記述された帯方郡(現ソウル近辺)から山門の邪馬台国までの総距離「1万2000余里」は、概ね正確な数字だと考えている。

帯方郡から九州に上陸する末盧国(東松浦半島)まで1万里、残りは2000里である。素直に考えれば、邪馬台国は九州北部から外に出ない。

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一方、「1万2000余里」を否定する説は以下の3つを見たことがあるが、私はどれも疑問を持っている。

  • 観念的数字説(中国世界観説)
  • 観念的数字説(漢書西域伝事例説)
  • 大月氏国(だいげっしこく)同列説

観念的数字説(中国世界観説)

仁藤淳史氏の説である。※『纏向発見と邪馬台国の全貌』(角川文化振興財団、2016年)

漢代以前の古い地理書『山海経』の世界観では、中国の「方三千里」を前提に…東西は「二万八千里」…と考えられていました。本来の三〇〇〇里に、新たに拡大した七〇〇〇里を加えた東西三万五〇〇〇里が、三国時代の世界観と考えられます。…中心は万里の長城に象徴されるように方万里…東海は、一万二千五〇〇里という前提で物事を考えていたことになります。

私は以下のように理解した。

  • 漢の時代には、直接支配する3000里四方を中心として、東西2万8000里に支配が及ぶという世界観だった。東の辺境までは「(2万8000里-3000里)/2=1万2500里」となる。
  • この世界観は直接支配が1万里四方になっても変わらず、魏志倭人伝の「1万2000余里」の記述となった。

紀元前からの世界観が、3世紀の魏の時代に意識されただろうか。直接支配が3000里から1万里に広がったのであれば、辺境までの世界観もそれに比例して広がるはずではないか。

1万2500里が意識されているのであれば、中国の史書に度々登場しているはずだが、仁藤氏はそのような事例を紹介していない。

観念的数字説(漢書西域伝事例説)

実は「1万2000余里」が登場する事例を紹介しているのが、松本清張氏である。※『松本清張 倭と古代アジア史考』(アーツアンドクラフツ、2017年)所収

万二千余里とは…実数ではなく単に朝貢する外国との遠い距離を表現する虚数にすぎない。
『漢書』の「西域伝」には、都の長安から、いわゆる夷蛮朝貢国の王城までの距離を一万二千里に計算できる数字で現わしている。
「大苑国。…長安を去ること万二千五百五十里。…
烏弋山離国。長安を去ること万二千二百里。…
安息国。…長安を去ること万一千六百里。…
大月氏国。…長安を去ること万一千六百里。…
唐居国。…長安を去ること万二千三百里。…」…
端数を四捨五入すれば「万二千里」の台となる。以上、僻遠の地域の距離が実数でないことはもちろんである。ただ遥かにも遠いという観念をこの数字で表現したにすぎぬ。…
『魏志』の「鮮卑伝」にも、鮮卑の領土として、「東西は万二千余里…」とある。

漢書西域伝には「1万2000余里」以外の距離もたくさん出てくる。いくつか例をあげると…

  • ・小苑国…7210里
  • ・精絶国…8820里
  • ・皮山国…1万50里
  • ・西夜国…1万250里
  • ・依耐国…1万150里

清張氏が抜き出した国は中央アジアに位置する近隣国だから、当然距離は似通ってくる。鮮卑の領土の記述も一例だけであり、偶然だと考えられる。

大月氏国同列説

岡田英弘氏は、「1万2000余里」は邪馬台国が西域の大月氏国と同列の大国に見えるように作った数字だとする。※『倭国』(中公新書、1977年)

こうした過大な里数を作り出したものは、二三九年の卑弥呼の「親魏倭王」であった。これはその十年前のクシャン王ヴァースデーヴァの「親魏大月氏王」との振り合いで出来た称号だから、倭国もクシャンと同様の遠方の大国でなければならなかった。後漢の…報告では、クシャンの都カーピシーは、洛陽から万六千三百七十里となっていた。…これに対して…邪馬台国は帯方郡から万二千余里としている。…楽浪郡は洛陽の東北五千里である。楽浪郡と帯方郡の距離は不明だが…かりにソウルとすれば…約五五〇里となる。これを合計すれば、洛陽から邪馬台国までの距離は一万七、八千里で、カーピシーとの距離とほぼ同じである。

洛陽から大月氏国まで「1万6370里」とか、楽浪郡まで「5000里」というのは、魏志倭人伝から100年以上後にできた後漢書の記述である。

洛陽からの距離を同列にしたいのであれば、なぜ邪馬台国も「洛陽を去ること万何千里」と記述しなかったのか。わざわざ他の情報と組み合わせて足し算をさせる理由がわからない。

※中国の史書は「中国哲学書電子化計画」サイトを参照した。

中国の史書はどのような基準で距離を記述したか

魏の時代の1里=430m前後とされているが、私は古代中国の里数は、史書によって、また訪れた地域によって様々な基準で記述されていると考えている。

漢書西域伝の距離は10の位までの詳細な数字である。歩測等による実測ではなく、当時の天文測量により直線距離を計算したのだと考えられる(ここでは詳しく触れないが)。古代の測量と計算方法であり、誤差は大きい。

例えば、西域伝に記述された距離と実際の直線距離は以下のようになる。

  • 漢書西域伝: 長安から大月氏国=1万1600里=3608km→1里=311m
  • 漢書西域伝: 長安から大苑国=1万2550里=3311km→1里=263m
  • 後漢書西域伝: 洛陽から大月氏国=1万6370里=3937km→1里=240m

※長安=咸陽、大月氏国=カブール、大苑国=フェルガナと見なし、直線距離は「計算距離」のサイトを参照した。

魏志倭人伝の「1万2000余里」は1里=430mだとすると約5000kmとなり、ソウルからシンガポールやジャカルタまで行ってしまう。

魏志倭人伝は狗邪韓国(釜山近辺)から見える距離にある対馬まで、対馬から壱岐まで、壱岐から東松浦半島までをそれぞれ1000里、東松浦半島から糸島半島を500里と記述しており、大きな不整合はない。1里=430mに代わる何らかの基準があったと思われる。

魏志倭人伝は100の位までの概数であり、天文測量による計算とは考えにくい。私は、例えば船で1日(日中)に移動した距離を1000里、陸を1日で移動した距離を500里というように、移動日数・時間によって便宜的に換算したのではないかと考えている。

魏の使者は伊都国に滞在し、不弥国までは足を延ばしたが、邪馬台国には行かなかった。帯方郡から不弥国までは合計1万700里と記述している。不弥国から山門の邪馬台国までは歩いて3日だと聞いて、1500里とした。合計すれば、帯方郡から「1万2000余里」である。

そもそも不弥国まで「1万700里」と記述しておきながら、「1万2000余里」が遠方の国だということを表す観念的数字だというのはありえない。不弥国からの「水行30日・陸行1月」の方こそ観念的数字であり、大和の邪馬台国の報告に使われたのではないか。

新年のNHK-BSプレミアムで「邪馬台国サミット2021」が放映されるそうである(1月1日夜7~9時)。様々な説が語られるだろうが、「1万2000余里」を無視しない議論を期待している。

浦野 文孝
千葉市在住。歴史や政治に関心のある一般市民。