「新自由主義」という亡霊 - 池田信夫

池田 信夫

このごろ「新自由主義の時代の終焉」とか「ケインズの復活」といった話題が、マスコミではもてはやされています。たしかにアメリカでは政権交代もあり、リベラルに軸が振れていることは事実でしょう。しかし、それがレーガン政権以前の「大きな政府」に戻る道ではないことは、オバマ大統領も明言しています。ところが日本では、そういう改革を徹底してやらなかったため、新自由主義という亡霊が徘徊しているようです。


新自由主義という言葉はlibertarianismの訳語でしょう。これはliberalismという言葉が、アメリカでは「大きな政府」を求める人々をさすようになったため、古典的自由主義をそれとは区別するためにつくられた英語で、新自由主義と訳したのは西山千明氏だそうです。これをイデオロギー的な蔑称として使うのは特殊日本的で、アメリカでは価値中立的な言葉です。”I’m a libertarian”という人も多い。特に経済学者は、おそらく過半数がリバタリアンでしょう。この背景には、経済学の長い論争の歴史があります。

1970年代までは、経済学界も今の日本とあまり変わらず、「経済は政府がコントロールすべきだ」と考えるケインジアンと「経済問題は基本的に市場メカニズムで解決すべきだ」と考えるマネタリストの論争が続いていました。しかしこの論争は、1968年に出たフリードマンの論文と、70年代に出たルーカスなどの一連の論文で決着します。ケインズ理論は、フリードマンの理論の特殊な場合であることが示されたのです。

そして80年代以降、フリードマンの理論にもとづいた金融政策によってインフレが収まり、先進国の物価は安定しました。80年代以降は、マクロ経済学には大きな論争はなくなり、フリードマンやルーカスなどの長期の理論と、そこからの景気変動を分析する短期の理論の役割分担ができました。それが教科書として完成したのはここ10年ほどですが、不幸なことにこの理論は数学的にかなりむずかしいため、学部では教えていません。そのため経済学を知らない日本人は、いまだにケインズ主義と対立する「新自由主義」があると思っているのです。

しかし池尾・池田本にも書いたように、そんな論争は経済学の世界では、われわれの学生時代に終わった話です。それは「シカゴ学派」というローカルな学派でもなく、かつてはリベラルの牙城だったハーバード大学のシュライファーは、20世紀を「フリードマンの時代だった」と総括しています。

先進国では市場の機能が成熟してきたので、経済問題は基本的に市場にゆだね、政府は市場が円滑に機能するための制度設計や規制改革を行う。景気変動には金融政策で対応する――というのが世界各国の政府や中央銀行のコンセンサスです。これは新自由主義とかいう特殊なイデオロギーではなく、たとえば日銀が公式に表明している原則であり、今回の危機で「終焉」するはずもありません。オバマ政権の国家経済会議のサマーズ議長も、

われわれの雇用を創出し長期的な成長に投資する政策に反対して、消費者の支出を生み出す短期的な刺激だけに焦点をあわせるべきだという人々がいる。しかしそうした短期的な政策が、現在の行き詰まりをもたらしたのであり、われわれはこれを拒否する。

と財政支出が短期のバラマキ政策ではなく、長期の成長政策であることを強調しています。アメリカでは、これを共和党がリバタリアンの立場から「大きな政府」への回帰だと批判しているのですが、日本では与野党ともに「雇用対策」や「中小企業の資金繰り」などのバラマキを求めています。

この1周おくれの奇妙な論争は、いくらやっても不毛です。彼らは問題設定が誤っていることを理解していないからです。その原因は、松本さんの指摘のように、日本には社会主義の影響が残っているためでしょう。だから論理で説得するのは困難ですが、根気強くやるしかありません。当サイトが、そうした役に立てれば幸いです。

追記:新自由主義をneoliberalismの訳語だと思っている半可通もいるようだが、これは西山千明氏が『隷属への道』の訳者あとがきで書いているように、彼が1970年代にフリードマンのlibertarianismを訳したのが最初。