「信用」と「実需」のバランス - 松本徹三

2009年03月11日 00:01

もう45年前のことになりますが、伊藤忠に入社して三年目の私は、当時の小菅宇一郎会長の秘書に突然任命されました。ちょうどその年に伊藤忠は社長交代があったのですが、世代交代を明確にする為、会長は完全に実務から身を引き、代表権も持たないことになったので、「秘書は若い奴でもよいだろう」ということになったのだと思います。当時の私は、営業の第一線でインド人を相手に商売のやり方を大いに学んでいたところでしたから、こんな仕事に回されたのは不本意で、「早く営業に帰してほしい」と文句たらたらだったのですが、雲の上の人から急に身近な存在になった小菅さんは、大変人情に厚い人で、私には慈父のような存在でした。


近江商人の子弟を育てた八幡商業出身の小菅さんは、若い時は「相場の神様」と呼ばれ、「相場を張れば百戦百勝で負けることがなかった」と聞いていましたので、或る時、たまたま飛行機で隣の席に座らせてもらえたのを幸いに、私は恐る恐る、「何故会長は百戦百勝、負けがなかったのですか? そもそも相場の本質とは何なのでしょうか?」と聞いてみました。最初は「麒麟も老いれば駄馬や」と笑っていなされましたが、私があきらめないので、小菅さんはそのうちにポツリと一言だけ言ってくれました。「相場は正直なもの。需給バランスだけをきちんと読んでいけば、間違えることはない。」それから少しして、「越後君はちょっと違うけどな」とも付け加えました。

越後正一さんは、小菅さんの後を継いで伊藤忠の社長になった人で、大阪の繊維商社だった伊藤忠を三井・三菱に伍する総合商社へと育て上げた人として、名をとどろかせました。また、シベリア帰りの瀬島龍三元陸軍参謀を抜擢して、種々の長期戦略を起案させたことでも有名です。この越後さんも、若い時は「相場師」として幾多の仕手戦を戦ったのですが、典型的な「ブル(牡牛)型」として知られていました。これに対し小菅さんは「ベアー(熊)型」として知られていたので、小菅さんが「ちょっと違うけどな」と言ったのは、このことを指していたのだと思います。(ちなみに、伊藤忠はその後、「経営基盤を不安定にする」という理由で、全てのビジネスで相場を張ることを禁じています。)

一般的に言って、「ブル型」とは、市場が熱くなりつつある時に、更なる相場の上昇を見込んで強気に買い進んで行き、自ら相場をリードすることを得意とします。これに対し「ベアー型」は常に需給関係の実態を冷静に見て、相場が加熱していると思った時には、売りに転じて利を稼ぐことを得意とします。小菅さんがこの時私に語ってくれたのは、「自然の流れに任せる」「無理をしない」という極意なのですが、勿論、これは「伊藤忠」という大看板を背負っていたからこそ出来たことなのだと、私は思っています。

昔も今も、相場というものは、「売り」も「買い」も「信用取引」をベースとしています。即ち、それぞれのプレーヤーは、それぞれが持つ実際の資金力に相当の「レバレッジ」を上乗せして売り買いをしているのですが、それでも一定の限界を超えれば、たとえ自分の「需給の読み(相場観)」が正しいと確信していても、それ以上は戦えなくなります。戦えなくなれば、自分が読んだ相場の最終的な姿を見極める前に、買ったものは売らねばならず、売ったものは買い戻さなければならなくなりますから、当然大損を招きます。

私にとっては、この時に聞いた小菅さんの「需給バランス」の話が、その後もずっと処世訓になっており、たとえば新しい技術の可能性に興奮しても、「どうすればそれに対する需要が作り出せるか」「それにはどのくらいの時間と金がかかるか」ということを常に考えてきました。(尤も、興奮すると判断力が狂うのが人の常らしく、頭ではそう考えていても、現実には、需要に対する自分の判断は、何時も少しだけ甘くなっていたように思います。これは余談です。)

何故、今、こんな懐古談を持ち出しかと言えば、現在の経済危機の問題を、もう一度「需給バランス」の原則論にもどって考えてみたいと思ったからです。

そもそも、経済が活況であるということは、需要が旺盛であり、これに対応する為に供給が拡大することを意味します。(尤も、この需要には、現実に存在する「実需」と、「将来の実需」を見込んでの「仮儒」とがあり、この「将来の実需」が根拠のない幻のものであったときには、この「仮需」はバブルであり、やがて破裂する運命にあります。)一方、実際に需要があっても、供給を拡大するためには投資が必要になりますから、市場に出回っている「通貨」の量が十分でない場合は、「信用」がこれを補うことになります。

ところが「実需」というものは、需要者の支払能力によって決まりますから、誰かが潜在需要者に信用を供与すれば、ここに新たな「実需」が生まれてきます。つまり、「信用」は「実需」に対応するだけではなく、「実需」を作り出す上でも効いてくるのです。その典型的な例が今回のサブプライムでしょう。誰だってもっと良い家に住みたいと思うのは当然ですが、これまでは「この収入ではとても無理」と考えていたのに、誰かが「大丈夫」と囁いてローンを組んでくれたので、これが「実需」になってしまったのです。しかし、サブプライムの場合は、「信用」を供与した側の計算が甘く、需要者の支払能力が実は「大丈夫」ではなかった為に、「実需」と思えたものは幻で、実はバブルとして終わる運命にあった「仮需」に過ぎなかったことが、すぐに露呈されてしまったという訳です。

このように、「信用」があらゆる局面で経済の発展を促進し、その経済発展が「後払い」の形で「信用」を回転させていくのだということを考えると、経済が健全に回転していくかどうかは、何よりも「信用」の規模が適正に保たれているかどうかにかかっていると言えます。今回は、一部の人達の「金融工学」に対する過信と「あくなき強欲さ」に、このことを見抜けなかった「各国の政府の怠慢」が加わり、「信用」が適正規模をはるかに超えるまでに膨張して、このような経済破綻をもたらせたわけですから、取り敢えずは、「信用」が一気に収縮するのは当然です。しかし、こういう局面では、今度は適正規模をはるかに下回るレベルまで信用が縮小してしまうのが常ですから、今はこれを防ぐことが急務です。

そう考えると、今為すべきことは、過去において「実需」と見えたものの中から、何が本当の「実需」だったのか(逆に言えば、何が実は単なる「仮需」に過ぎなかったのか)を慎重に見直し、「健全な『実需』に対しては、あらためて十分な信用供与をしていく」ことではないかと思います。健全な「実需」とは、一言で言えば、「十分な後払い能力」が保証されているような需要です。たとえば、BRICsに代表されるような潜在成長力のある国の、一般の人達の生活水準を引き上げるような分野での需要は、この対象と考え得るでしょうし、先進国においても、勿論この対象となりうる分野は数限りなくあるはずです。

この分野を正確に読み取る為には、意外に、「素直な心」だけで十分なのかもしれません。私は、その意味でも、四十五年前に聞いた小菅さんの言葉を、あらためて噛みしめている次第です。

松本徹三

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