あるべき「検察」「法曹」への期待 ー 矢澤豊

矢澤 豊

「検察に『勝利』はなく、『敗北』もない。」

The Prosecution neither triumphs nor suffers defeats.

私がイギリスで法廷弁護士(Barrister バリスター)の勉強をしていた時、講師として教壇に立った現職の勅撰弁護士(Queen’s Counsel)が開口一番に言った言葉です。


検察の役目は公判という場における、真実の探求の一助となることであり、そこに評決/判決という結果をもって「勝利」もしくは「敗北」という自己評価を行う必要はない、というのがその主旨です。

もちろんこれは、対審主義(adversarial process)をとる英米法における刑事訴訟制度をふまえた話です。またイングランドのように、法廷における代弁者(advocate)としての法廷弁護士(バリスター)と、依頼者の代理人(attorney)としての事務弁護士(ソリシター)、というように法曹を二分化し、法廷弁護士は法廷への義務を第一義とせよとする法曹文化を前提としていますし、また原則として法廷弁護士は検察側にも被告側にも登板することがあるという事情も、この講話の前提でしょう。

しかし、ここのところの小沢民主党代表の公設秘書の起訴に関連した日本の検察当局の行状をみますと、日本の法曹文化にはこうしたストイックなプリンシプル、「原則」、「価値観」、「美意識」もしくは「筋を通す」ということが甚だ欠如しているのではないかと思わざるを得ません。

「信用」に関するウォルター・バジョットの有名な箴言を転用すれば、検察がメディアを通じて自らの行動の正当性をアピールしなければならないということは、すでにその正当性は相当以上に失われているということでしょう。

考えてみれば、佐藤優氏の一番の功績は、鈴木宗男氏と共に画策した(と氏が主張する)ヘタクソな対露外交工作ではなく、「国策捜査」というボキャブラリーを巷間に定着させたことかもしれません。

一昔前の話になりますが、日歯連収賄事件で村岡元官房長官の東京地方裁判所における一審無罪判決が、東京高等裁判所で逆転有罪となった時、「祝杯をあげたい」とのたまった検事氏の談話を聞いた時、私は「なんとまぁ、節操のない」と思ったものです。心にそう思っていても、決して口にしてはならない部類の話だと思うからです。

小沢氏/検察に関するニュースを見聞きするたびに感じることは、日本の法曹の将来の為に、法曹一元化が急務であるということです。

今の日本の司法制度のシステムは疲弊しています。制度のシステム疲弊とは、要するにそのシステムを構成する「人と人」の関係が上手くいっていないということです。組織における「人と人」との関係を円滑にするということは、ある人物の能力や功績を正当かつ有効に評価し、これを賞することに手落ちがないということにほかなりません。

現行システムにおける司法試験に受かったばかりで実務経験が皆無の修習生に、判事/検察/弁護士とキャリア選択をさせ、彼らの将来をしばるというやり方は、どうみても有能かつ有為の人材を有効に活用する手段とは思えません。

とくに検察においては、起訴/立件/有罪判決という結果評価に重点がおかれ、結果として新進気鋭の検察官が自らの立身出世の為、難事件をさけるという風潮があることは由々しき事態です。あまりケース・バイ・ケースの細かいことに言及することに利があるとは思えませんが、数ある案件のうち、有罪判決が確かなものだけを起訴し、残りを握って裏社会に貸しをつくるなどということを耳に挟んだこともあります。

そして「巨悪を眠らせない」という、それ自体は至極ごもっともですが、偏ったお題目と価値基準を提示し、メディアへのリークを利権として「ブンヤさんのおごりで銀座で飲んで一人前」などという裏の評価基準が定着しているようでは、システムは「疲弊」を通り越して、「破綻」しているのではないかとも思えます。

思うに、現行の「検察」というキャリアは、金銭による報酬よりも、より有意義な社会貢献に志を建てた有為の青年たちをして、刻深酷薄な官吏と為す、非人間的なシステムであると言わざるを得ません。いうなれば日本史上、総じて国民に蛇蝎のごとく嫌われてきた伴大納言善男、鎌倉幕府侍所所司梶原影時、そして江戸幕府南町奉行鳥居耀蔵タイプの人間を大量製造して国家の廟堂に送り込んでいるのです。「末めでたきご政道に非ず」でしょう。

現在閉塞してきている他の日本の諸制度と同様、検察、そして日本の法曹の全般は、人材の流動化を促進させ、弁護士/検察官/判事というキャリア間の相互乗り入れをより可能にし、序列にとらわれない適材適所を実現させ、「巨悪」に対峙する特捜検察のみをエリートとする価値基準を改め、市民の生活を守る公安検察に同等以上の評価を与えるシステムに移行することが望ましい。 年次という上下関係にうるさく、評価が特捜という「レギュラー選手」に偏重し、「二軍選手」の努力に目が届かない、タチの悪い体育会のような体質を改めることは喫緊の課題なのです。

最後に小沢氏の為に図れば、我が国には古来「身は一代、名は末代」という言葉があります。氏が権勢の座に執着することによって、氏の取り巻きの期待を担保するところはあっても、国民が得るところ、つまり「政権交代」の実現が危うくなっています。是非とも名を惜しむ氏の出処進退を期待して、本稿の末尾とします。