1990年代後半の韓国経済の激動から学ぶもの? - 松本徹三

松本 徹三

最近、思うところがあって、韓国の現代史を少し勉強しています。その目的は、同国における高速インターネットの普及が、2002年の盧武鉉大統領の選出と2004年の同大統領の弾劾に対する反対運動に、「どのような経緯を経て、どのような影響を与えたか」を知ることでした。しかし、その事は、後日のテーマとして取り上げるとして、今日は、その過程で知った「1990年代後半の韓国経済の激動」について考えてみたいと思います。


韓国の経済は、内戦後の混乱期の後、朴正煕 全斗煥両大統領の軍独裁の強権政治の下で、民主主義を犠牲にする形で成長を遂げ、1986年には経済成長率12.9%、国際収支の黒字46億ドルを達成、そのダイナミズムは「漢江の奇跡」と囃されて、欧米諸国での「開発経済学」による解明の対象にもなりました。

ソウルオリンピックを1年後に控えた1987年に勃発した「6月抗争」は、韓国の現代史においても特記されるべき民主化勢力の蜂起であり、これによって韓国の民主化は大きく前進しましたが、経済発展はその後も多少の曲折を経ながらも着実に進み、1995年には国民一人当たりのGDPは1万ドルの大台に乗り、1996年には念願のOECDへの加盟も実現しました。

1992年に大統領となった金泳三はもともとは軍事政権との対決の先頭に立った民主化運動の闘士でしたが、大統領に就任した翌年には、「世界はまさに無限競争の時代にある」という認識に立って、「競争力の向上」を最大目標とする「グローバリゼーション(国際化)」を国の基本方針として宣言しました。彼を取り巻く経済政策担当の補佐官達は「新自由主義」を信奉するエコノミストで占められ、彼自身も「政府は企業家、公務員はセールスマンであるべき」等と発言していました。

それというのも、その頃の韓国経済は、賃金コストの大幅な上昇と軽工業分野での東南アジア諸国の追い上げに直面し、その成長に急ブレーキがかかりつつあった上に、ウルグァイラウンド交渉の帰結として、コメを含む農産物の大幅な市場開放を迫られていたからです。これによって金泳三政権は、それまでの支持母体であった労農勢力との対決も余儀なくされました。

グローバリゼーションの一環として、金泳三大統領は、雇用主に整理解雇権をあたえ、臨時職労働者の雇用も認める「新労働法」を施行しましたが、これに対しては、民主労総と韓国労総が、全国で300万人を動員するゼネストで対抗した他、ILO等の国際機関も代表団を韓国に派遣して抗議するなどの事がありました。

しかし、「頻発し始めた企業倒産を防ぎ、経済発展を持続させるためには、労働市場の改革や流動化は不可避」という社会的合意が既に形成されつつあったので、労働組合もその流れには抗しきれなかったようです。そして、その結果として、1995年、1996年には、前述のような輝かしい経済成長の成果が得られたのです。

ところが、万事がうまくいっているかに見えたこの頃に、実は破綻の影が忍び寄ってきていたのも事実です。グローバリゼーションの掛け声に乗っての行き過ぎた拡張政策は、やがて相次ぐ企業倒産や金融機関の不良債権の拡大を惹起し、そこに国際ヘッジファンドの投機的な攻撃が襲いかかった為に、韓国経済は突如として「奈落の底」へと引き込まれました。

この結果として、金泳三政権が任期満了で退き、金大中政権が生まれた1998年には、経済成長率はマイナス5.8%、1万ドルを超えていた国民一人当たりのGDPも6,823ドルまで落ち込み、失業率は6.8%まで跳ね上がって、「韓国経済も、もはやこれまでか」と思われるような、絶望的な状態に陥ったのです。

しかし、この絶望的な状況下で、韓国政府は持ち前の「したたかさ」を発揮します。IMFの支援で総額583.5億ドル(内210億ドルはIMF自身の拠出)にも及ぶ巨額の資金援助を獲得、その代償として受け入れた「IMFの管理体制」下で、大胆な改革を次々に行ったのです。

先ずは、新たな金融監督機構を設置して、金融機関の徹底した整理統廃合を行う一方、GDPの30%にも及ぶ厖大な公的資金を投入して不良債権の圧縮を行います。次に、外国人の投資制限を完全に撤廃し、資本市場の自由化を進めました。

改革は金融分野だけでなく、産業構造や労使関係にも及びました。五大財閥の過剰な多角化にメスが入れられ、大規模な企業交換が政府の指導下で行われました。公共部門の大幅なリストラも行われ、2年間で13万人以上が削減されました。IMFは労働市場の柔軟化も強く求めたので、「労使政委員会」というものが設立され、この場での激論を経て、「経済危機克服のための労使政間の公正な苦痛分担に関する合意文」というものが発表されるに至りました。

金大中大統領はもともと左翼的な思想傾向の強い人でしたが、米国亡命中にレーガノミックスによる経済再生を目の当たりにし、市場経済の重要性については十分に理解していたようです。彼は、金泳三政権の新自由主義経済路線を概ねそのまま継承しただけではなく、「IMF事態」という国民的危機意識を追い風にして、むしろこの路線を更に徹底して推進したかのようです。

こうした金大中政権の徹底した改革の成果は、僅か1年で目覚しい成果を出しました。GDP成長率は1998年のマイナス6.7%から、1999年にはプラス10.9%とV字型に回復、2000年になってもプラス8.9%と好調を維持します。1998年には赤字に転落していた貿易収支も1999年には黒字転換、底を突いていた外貨準備も2000年には1,000億ドル近くまで持ち直しました。1998年に6.8%だった失業率も2000年には3.8%まで下がりました。

さて、私がこのように長々と10年以上前の隣国の経済情勢について語ったのには、勿論それなりの理由があります。現在の経済危機に対する米国の対応を論じるにあたって、多くの人達が、「日本の失われた10年」に起こった事について、米国人が正確には殆ど何も理解していないことを難じ、その教訓が生かされていないことを嘆いていますが、わが身を振り返ると、我々も過去に隣国で起こった事からは、殆ど何も学んでいないかのように思えます。

韓国経済は日本の後を追ってはいるものの、その規模は小さく、また、韓国の政治情勢は、日本に比べると万事に振幅が大きく、はるかに不安定です。軍事政権は徹底的な強権政治でしたし、これに対抗した学生運動や労働運動は、日本よりはるかに過激でした。そこに、分断された民族の悲願である「南北統一」の問題、更には、「恨(ハン)」の感情を引きずった「湖北(全羅道)と嶺南(慶尚南道)の長年にわたる対立」に象徴されるような「韓国特有の地域主義」の問題などが複雑に絡み合っているのですから、日本人の理解を超えるところはたくさんあるでしょう。

ですから、「韓国で起こったことなどは、参考にはならない」と、多くの人達が考えるのも頷けます。しかし、これは、欧米諸国が日本で起こったことを参考にする気があまりないのと、軌を一にしているように私には思えます。政治や経済については、理論以上に歴史的な事実から学ぶ事が多いように思われますから、時代を超え、国境を越え、あらゆる歴史的な事実は、そのそれぞれを貴重な材料として、学習の対象にするべきではないでしょうか? 

特に現在の日本のように、全てが閉塞感に覆われているかのような時期には、異なった国で、我々とは異なった感覚によって遂行された「危機への対応策」が、何らかの示唆を我々に与えることもあろうかと思う次第です。

注: 本文には、立命館大学の文京洙教授の「韓国現代史」(岩波新書)からの引用が多数含まれます。

松本徹三