ノマドの反乱 - 池田信夫

池田 信夫

一昨日の記事に堀江貴文氏からコメントをもらいました。インフルエンザをめぐる過剰反応にうんざりしているのは、みんな同じのようですね。ただ私は、彼が考えるほどこの問題は宿命的ではないと思います。


「日本人が極端にリスクをきらうのは農耕民族だからだ」といった説明がよくありますが、これは歴史的にはおかしい。網野善彦が明らかにしたように、「百姓」は農民のことではなく、漁民や商人や職人などを含む雑多な民衆のことです。彼の『無縁・公界・楽』にも書かれているように、「無縁」というのは農村のタコツボ的共同体から自由になることで、こうしたノマド(移動民)が農村を横断する公共的な空間(公界)を創造しました。公界は聖なる空間で、ここから神話や芸能が生まれたのです。農村も自給自足の共同体ではなく、縄文時代から地域間の交易があったことがわかっています。

しかし農村の外からやってくるノマドは忘れられ、古来から農民が日本社会の中心だったという農本主義史観が続いてきました。その影響は企業にも及んでおり、農民的な長期雇用の社員だけを企業のメンバーとみなす傾向が強い。日本経団連の御手洗会長は「終身雇用は日本の伝統だ」とのべていますが、驚いたことに彼のいう社員には臨時工は含まれていない。彼らを解雇したのは「外部から来ていた人が引き上げて行っただけ」なのです。

歴史的には、終身雇用といえる雇用慣行が成立したのは1960年代以降の大企業の男性社員だけで、昔も今も大部分の労働者は流動的な労働市場で働いてきました。問題は、こうしたノマドが少数派ではないにもかかわらず無視され、社会に農民しかいないかのような錯覚が続いてきたのはなぜかということです。

その原因として網野が指摘するのは、天皇制との関係です。天皇が民衆を支配する律令制以来の建て前においては、民衆はすべて「班田」をもつ稲作農民とされました。村に定住する者だけが戸籍をもっていたので、それ以外の「まれびと」は無視され、記録にも残らない。人類学でよく知られているように、伝統的な社会では定住民の秩序が硬直化したとき、それを破壊する神話的な装置としてトリックスターが使われますが、明治以降の天皇制国家のもとでは、こうした異端が切り捨てられたため、権力が硬直化して破滅をまねきました。

戦後は、農業そのものがほとんど消滅したにもかかわらず、定住する「正社員」だけをメンバーとみなす農本主義的な企業システムが続いてきました。これは一時は日本企業の強みだと思われていましたが、こういう農民的なエートスは資本主義とは相性がよくない。ドゥルーズ=ガタリもいうように資本主義は、ノマドが既存の秩序を「脱コード化」し、差異化することによってつねに変化するシステムだからです。また人類の歴史の中でも、定住生活が始まったのはここ1万年以内のことなので、定住志向は遺伝的なものではありえない(ただ類人猿にも縄張りはあるので、人類にも定住に適した遺伝子はあるでしょう)。

つまり日本人の農民的な行動様式や農本主義イデオロギーは民族的伝統ではなく、明治以降、天皇制国家を統合する過程で教育によってつくられたのではないか、というのが網野の推測です。それが正しいのかどうかは今後の研究をまつしかありませんが、少なくともいえるのは、日本人の保守性は宿命的なものではないということです。堀江氏のようなノマドは少数派ですが、彼についての記事には多くの共感が寄せられます。それは日本人の中にも、ノマディックな自由を求める欲求があるからではないでしょうか。