砂上の楼閣 - 岡田克敏

2009年11月22日 13:04

 先日、京都の知恩寺で恒例の古本祭りが開催されました。広い境内には多くのテントが設置され、幅広い年齢層の客で賑っていました。興味を惹かれたのは古ぼけた仏教関係書が置かれた一角です。分厚い本が多く、数千点はあろうかと思われるその量の多さに驚かされました。

 むろん、ここに展示されている仏教関係書は一部であり、他にも多数ある筈です。多くはこの100年くらいに書かれたものでしょうが、著作のために使われたエネルギーはまことに膨大なものです。それを経済的に支えたものは多くの信者であったことでしょう。私のような門外漢にとって、それは同時に膨大な無駄の集積と思われます。


 いかに緻密な論理で構築されたものであっても、それが妄想の上に築かれたのであれば砂上の楼閣に過ぎません。妄想を持たない者、異なる妄想を持つ者にとってはほどんど意味がありません。一般に仏教書が無心論者やキリスト教徒にとって意味を持つことがないように。つまりそれらはその宗教内でだけ意味があるローカルなものにならざるを得ません。

 中世のキリスト教神学者トマス・アクィナスは神学大全を著し、キリスト教世界に大きな影響を与えた人物とされていますが、彼は死ぬ前年、自分が生涯、命を懸けて書いたものはすべて藁くずにすぎない、と述べたと言われています。

 世界には数多くの宗教があり、さらに多くの宗派があります。それぞれが正統を主張している姿は外部の目からは滑稽なものに映ります。正統がいくつも存在することは矛盾であり、ひとつだけ正統があるとすれば他はすべて嘘を言っていることになります。

 なぜこのようなものに夥しい努力が払われてきたか、というところに私は興味を惹かれます。仏教といっても多くの宗派があり、それぞれに教義があって、さらにそれらに対して複数の解釈がなされる、といった具合に対象が分散してきたことがひとつの理由でしょう。

 宗派が多くあるということは中核にあるものが曖昧で、いろんな解釈が可能ということを示しています。さらに言葉の定義の不完全性が考え方の違いを生むこともあったかもしれません。結局、数多くのローカルな袋小路が作られ、空しい努力が続けられたのでしょう。科学が高い普遍性を持ち、有効に機能していることと対照的です。

 出発点を十分吟味せず、論理の展開にばかり心を奪われるという傾向は宗教に限りません。どうやら我々にはそのような性質が備わっているようです。世に不毛な論争が絶えないのはそんなところにもあるのかもしれません。

これは以下の蓮実重彦元東大総長の入学式式辞(1999)とも通じるように思います。
「そうした混乱のほとんどは、ごく単純な二項対立をとりあえず想定し、それが対立概念として成立するか否かの検証を放棄し、その一方に優位を認めずにはおかない性急な姿勢がもたらすものです」

 難解なものは深遠で価値あるものだ、とわれわれは考える傾向があります。わざと難しく書かれた文章、聞いてもさっぱりわからないお経など、その傾向につけ込んだものと言えるでしょう。また空疎な内容を隠すために難解にしているということもあります。難解なものには空っぽなものが少なくないと疑ってみることも必要でしょう。

 難解なものを理解していると人に思わせることは知的な装飾品を身につけることでもあります。難解な数学用語を多用した理解困難な文章が特徴であるフランス現代思想、ポストモダニズムはまさに知的な装飾品といった趣があります(リチャード・ドーキンスは高級なフランス風エセ学問と呼びました)。その「装飾性」が普及に一役買っていることは間違いないでしょう。

 ふつう物は高いほど売れにくくなりますが、宝飾品などは高いほど売れる場合があります。これは顕示的消費、ヴェブレン効果などと言われていますが、難解なものが普及する現象と少し似ています。

 ニューヨーク大学物理学科教授のアラン・ソーカルがフランス現代思想の欺瞞性を暴露した「ソーカル事件」はたいへん興味深いものです。
(参考) ソーカル事件(Wikipedia)
     アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン著『「知」の欺瞞』

 砂上の楼閣が築かれる理由はいろいろあり、それに向けた努力はなかなか絶えそうにありません。

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