先日、京都の知恩寺で恒例の古本祭りが開催されました。広い境内には多くのテントが設置され、幅広い年齢層の客で賑っていました。興味を惹かれたのは古ぼけた仏教関係書が置かれた一角です。分厚い本が多く、数千点はあろうかと思われるその量の多さに驚かされました。
むろん、ここに展示されている仏教関係書は一部であり、他にも多数ある筈です。多くはこの100年くらいに書かれたものでしょうが、著作のために使われたエネルギーはまことに膨大なものです。それを経済的に支えたものは多くの信者であったことでしょう。私のような門外漢にとって、それは同時に膨大な無駄の集積と思われます。
いかに緻密な論理で構築されたものであっても、それが妄想の上に築かれたのであれば砂上の楼閣に過ぎません。妄想を持たない者、異なる妄想を持つ者にとってはほどんど意味がありません。一般に仏教書が無心論者やキリスト教徒にとって意味を持つことがないように。つまりそれらはその宗教内でだけ意味があるローカルなものにならざるを得ません。
中世のキリスト教神学者トマス・アクィナスは神学大全を著し、キリスト教世界に大きな影響を与えた人物とされていますが、彼は死ぬ前年、自分が生涯、命を懸けて書いたものはすべて藁くずにすぎない、と述べたと言われています。
世界には数多くの宗教があり、さらに多くの宗派があります。それぞれが正統を主張している姿は外部の目からは滑稽なものに映ります。正統がいくつも存在することは矛盾であり、ひとつだけ正統があるとすれば他はすべて嘘を言っていることになります。
なぜこのようなものに夥しい努力が払われてきたか、というところに私は興味を惹かれます。仏教といっても多くの宗派があり、それぞれに教義があって、さらにそれらに対して複数の解釈がなされる、といった具合に対象が分散してきたことがひとつの理由でしょう。
宗派が多くあるということは中核にあるものが曖昧で、いろんな解釈が可能ということを示しています。さらに言葉の定義の不完全性が考え方の違いを生むこともあったかもしれません。結局、数多くのローカルな袋小路が作られ、空しい努力が続けられたのでしょう。科学が高い普遍性を持ち、有効に機能していることと対照的です。
出発点を十分吟味せず、論理の展開にばかり心を奪われるという傾向は宗教に限りません。どうやら我々にはそのような性質が備わっているようです。世に不毛な論争が絶えないのはそんなところにもあるのかもしれません。
これは以下の蓮実重彦元東大総長の入学式式辞(1999)とも通じるように思います。
「そうした混乱のほとんどは、ごく単純な二項対立をとりあえず想定し、それが対立概念として成立するか否かの検証を放棄し、その一方に優位を認めずにはおかない性急な姿勢がもたらすものです」
難解なものは深遠で価値あるものだ、とわれわれは考える傾向があります。わざと難しく書かれた文章、聞いてもさっぱりわからないお経など、その傾向につけ込んだものと言えるでしょう。また空疎な内容を隠すために難解にしているということもあります。難解なものには空っぽなものが少なくないと疑ってみることも必要でしょう。
難解なものを理解していると人に思わせることは知的な装飾品を身につけることでもあります。難解な数学用語を多用した理解困難な文章が特徴であるフランス現代思想、ポストモダニズムはまさに知的な装飾品といった趣があります(リチャード・ドーキンスは高級なフランス風エセ学問と呼びました)。その「装飾性」が普及に一役買っていることは間違いないでしょう。
ふつう物は高いほど売れにくくなりますが、宝飾品などは高いほど売れる場合があります。これは顕示的消費、ヴェブレン効果などと言われていますが、難解なものが普及する現象と少し似ています。
ニューヨーク大学物理学科教授のアラン・ソーカルがフランス現代思想の欺瞞性を暴露した「ソーカル事件」はたいへん興味深いものです。
(参考) ソーカル事件(Wikipedia)
アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン著『「知」の欺瞞』
砂上の楼閣が築かれる理由はいろいろあり、それに向けた努力はなかなか絶えそうにありません。
コメント
私は無心論者で、宗教行事といったら、葬式くらいしか参加しないのですが、お経などに胡散臭さはあるとしても、内容にはそれなりに意味があると思いますよ。
要するにあれは洗脳ですよ。死んだ人に死後の世界があると見せかけることで、遺族を慰め、また、口で言っても聞かない、悪いことばかりする人に、良いことをさせるために敢えて分かりにくくして洗脳しているのではないかと。
まあ、聞いてる人なんてほとんどいないと思うので、宗教家の自己満足かもしれませんけどね。
このご時勢、宗教家の家を継げるだけでも価値があることで、それ以上の意味もそれ以下の意味もないのかもしれません。
単に進化論的にかんがえれば、いくつもの宗教があるのは、特に不思議ではないのでは? そう考えれば、宗教がローカルなものにならざらるをえないのは、当然であって、それぞれの条件(時代・地理・状況とかいろいろ)に適応して生き残った、単なるヴァリエーションの違いにすぎない、と考えます。
そのように考えるには、いくつか条件が必要で、
・宗教には目的がない(あるいは、達成されえない目的を掲げる)
・理論の空白地帯はない(理論がないように見えるのは、悪い理論がはびこっていることを意味するので、よい理論で覆い尽くす必要がある)
などが考えられます。(ぜんぜん突き詰めてませんが)
なので、おびただしい、無駄な努力とみえますが、一番シンプルに考えれば、「生き残るのに必死だ」となると思います。
宗教にとっては、自分の教義が残ることが、重要なわけですから。
ふつう、生物相手に「おまえ、生きてるの無駄じゃない?」といちいち言わないと思います。しかし、同じ人間相手には、言ってしまいがちだとも思います。
聞いている人がほとんどいないというのも確かですね。意味を伝える努力をしてこなかったことの当然の結果であると思われます。
お経をわかりやすい言葉にして、意味を伝えようとする試みがあるそうですが、まだ少数でしょう。
記事を書いた岡田克敏です。3のコメントは disequilibrium さんに対するものです。
isseishimiz さんへ
宗教がローカルなものにならざらるをえないのはおっしゃる通りです。ただ比較的条件の同一な日本においてさえ多くの宗派が存在することを考えると、組織の分裂という要素も大きいと思います。
私はここで宗教の価値についての判断は避けたつもりですが、膨大な無駄なんて言うと、私の宗教に対する考えはバレているかもしれません。でも話の中心は砂上の楼閣がなぜ作られるのかということです。
そう、教団が生き残るため、というのも大きい理由になるでしょうね。
信じる。疑うのと同じように人類の本能なんでしょうか。
「出発点は証明できない」 最近、哲学の入門書で学びました。 一般には意識されていないのですが、これからの言論では、大切な概念だと思いました。
おっしゃっていることには概ね同意します。ですが、坐禅のような修行の有効性は実際にあることだけお伝えしておきます。でも、お分かりいただけないでしょうね。
「信じる」を本能と呼ぶべきものか、わかりませんが、集団生活を行う上で、「信じやすいこと」は大事な条件ですから、インプットされた属性なのでしょう。信じるという性質がなければ集団はまとまらないでしょうね。
「出発点は証明できない」について
例えばユークリッド幾何学はいくつかの公理が出発点になっていますが、公理は証明できないものであり、自明のものとされます。
しかし科学哲学がなくても科学はちゃんと機能するように、このような厳密な議論は現実とは少し違った世界だと思います。科学は帰納法を多く用いますが、これは100%の証明にはなりません。でも科学は信じるに足るものといえます。
以上はあやふやな知識に基づいたもので、申し訳ありませんが、参考程度にお聞き下さい。
コメント7はshlifeさんに対するものです。
renpoo さんへ
坐禅のような修行は経験がないので確かなことは言えませんが、有効性を否定するものではありません。
座禅のような場は教義を知らなくても、つまり宗教色なしでも可能ではないでしょうか。
仰る妄想の論点には、概ね同意です。
いわでもの蛇足を一言します。
宗教というと哲学的な抽象的なものを想像しがちな気がしますが、キリスト教、仏教、儒教などなど内容では当然いろいろです。
仏教は、例えば般若心経の僅かA4一枚では色即是空と、哲学的です。
儒教は、より具体的でなんだか会社の就業規則に似て、世間での就業規則のようで、案外日本の底流に今も生きているように思います。
キリスト教は、旧約ではイスラエルの建国秘話のようでもあり、中東の生活で、こんなものは食べてはいけないというような必須の規律を定めて、それがまた神との契約という摩訶不思議で、もう小生には意味不明の世界です。
新約ともなれば、救済とか、池田信夫先生が言及していたことが小生には納得しやすいものです。
mukaihidemasaさんへ
各宗教についてご見解、面白いですね。よく知りませんが、多分あたっていると思います。
小乗仏教は宗教というより哲学に近いですね。般若心経に関する和書は700点以上発行されており、出版社の定番となっている観があります。読解に多くの努力が払われていますが、いくら読んでもわからないという方が多いようです。わからなくてあたりまえだと思いますが。
> courante1さん
坐禅をやっていると時折、とある通過点を通ります。そうすると般若心経に書いてあることが事実であり、「700 点以上の和書」は、ほぼ役立たずであることが、体験的に理解できます。
たしかに既存宗教の多くの部分を「信者の誤読」が形成している面はあります。ですが、真理は真理なのです。その時の真理とは、「神がこの世界を創りたもうた」などという妄言ではなく、現前している「この大宇宙そのもの」という事実が、そのまま唯一の真理なのです。
こういったことは自ら修行して、きちんと悟った師によって指導されなければ、理解できないことです。
renpooさん
おっしゃっていることに興味を惹かれます。
「とある通過点」がどのようなものか、知りたいですが、きっと言葉による表現が難しいのでしょうね。
恐らく私には理解できないだろうと思います・・・。
ソーカル事件を始めて知りました。早速『「知」の欺瞞』を拝読したいと思います。
私の宗教観は意味論で-ソーカル事件を知るとこういう用法は使いづらくなります-説明しますと、モーセ、釈尊、イエス、ムハンマドが「現地」としているものを、今の各教団の教義は伝えず、彼ら自身を「現地」としてしまったことではないかと思います。
彼らはその「現地」を伝える「地図」であり、「地図」を「報告」すべき教義が単なる「決め付け」と「叙述」になってしまった、いや「叙述」ではなく「哲学」にしてしまったことではないでしょうか。
中川信博