この国のゆくえ ― うちとそと  余野部 剛

2009年12月24日 14:38

日頃、目に付き易い国内の政治・経済の情勢のみに関心を取られていると、ついついそのグローバルな政治経済の動きとの関連を見失いがちになるものだ。先頃も我々は、郵政の運営が公然と国有化の方向へと逆行したり、財務省がその既得の存在感を、いまさらながらに前面に押し出して来るのを目の当たりにして、しばし呆然とせざるを得なかったのだが、省みれば、それこそわれわれの近視眼のなによりの証明であった。


うちからそとへと視点を変えて、世界の状況を眺めて見れば、機能不全に陥っていたグローバル金融システムが、再び立ち直りつつあるのが見えて来るだろう。しかしそれは、決して自らの力で立ち直ったわけではない。うまく事が運んでいた時には、市場の万能と独立性を誇らしげに称え、もろもろの国家の境界という古臭い障害物に対する軽蔑を表明していたグローバリズム、その同じグローバリズムが、いったん深刻な危機に陥るや、恥も外聞もなく各国政府の援助にすがりついて、その存続を図らざるを得なかったのだ。こうしてその自立性には大きな疑問符が付けられた。例えて言えばそれは、問題を起こして親に泣きついた学生のようなものだ。この生意気な学生が外でこしらえて来た借金は、こうして親が肩代わりすることになり、政府債務の増大という形で、その家庭の財政を危機に陥れる結果を招いたのである。

前述の日本国内の反動的な特徴を帯びた一連の動きも、こうした国際情勢を考え合わせてみて、初めて納得できるものだ。放蕩息子に縋りつかれて責任をとらされた当の親たち、つまり諸々の国家が、本人たちにその気があろうとなかろうと、その存在感を増さざるを得なくなるのは、殆ど必然の成り行きであろう。国内に於いて、小泉政権時には、規制緩和や民営化が叫ばれ、今またその逆の方向が志向されたりするのも、一歩引いて見れば、その背後には、常にそれに応じた国際的な流れがあるのだ・・・。

とはいえ、事情はそう単純でもない。こと日本に関する限り、世界よりも一足先にバブルとその崩壊というプロセスを通過し、既にさんざん親にも迷惑をかけ、その結果として導き出されてきたのが、小さな政府という理想であるというように、世界の流れとの間に、ある種の時間差が生じていたからである。幸か不幸かそれがために、今回のグローバル金融システムの危機に際しては、比較的無傷で済んだわけだが、その我々が、なにもわざわざ国際社会に足並みを揃え、ここに至るまでの流れを全てご破算にして、大きな政府に回帰するべき必然性があるとはとうてい思えないのだ。

世界各国が保護主義的な金融政策をとっている時、それに歩調を合わすことを拒否するのは、かなりの勇気を要するだろう。しかし、こういうことは考えられないか。以下推測で述べるのだが、そもそもこの数百年間におけるヨーロッパの目覚しい繁栄、それは、われわれアジアの諸国が、揃って鎖国的な政策を採用していた時に、彼らだけが危険を冒して、海外へと乗り出して行ったという、まさにその理由によるのではないかということだ。一方で、我がアジア諸国の自らを閉ざした態度こそ、その後の長期の停滞と、各国がバラバラに存在するという現在に至るアジアの状態を齎した要因ではなかったろうか。

しかし、今やそのアジアが逆に目覚めつつあり、その急速な発展のためには、グローバルな資本市場が不可欠な状態にある。そうした時にこそわれわれは、保護主義の安心のうちに自らを閉ざすことなく、敢えてグローバルな市場へと船出すべき義務があるのではないだろうか。現在疑問符の付けられているグローバル資本主義に敢えてその身を託し、未知の航海に乗り出してその発展に貢献することができたなら、来るべき数世紀は、我々を含むアジアの世紀となるだろう。

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