映画「アバター」が社会に示唆すること(デジタルによるリアルの「代替」) - 磯崎哲也

2009年12月25日 14:31

ジェームス・キャメロン監督の最新作「アバター(AVATAR)」の本公開が待ちきれずに、22日の「前夜祭」で同作品を見た。
これはスゴい。スゴすぎる。

この映画、キャメロン監督自身が「子供の頃、ありとあらゆるSF小説を読み漁っていた、その集約」と言うように、内容は「エイリアン」や「スターウォーズ」「デューン」といった今までの名作映画の面白いところをふんだんに詰め込んだ「だけ」とも言える。
(同じキャメロン監督の「タイタニック」を「『ロミオとジュリエット』と同じじゃん」と言ってしまえばそれまでなのと同様。)

しかし、この映画で使用された「3D」技術が社会に与えるインパクトについては、非常に多くのことを考えさせられる。


(注:つまり、この映画は「3D(立体)」で観ないと意味が無いと思う。)

「今までも遊園地の劇場などで3Dコンテンツはあった。何も目新しくない。」とおっしゃる方もいると思うが、そうした「画面から尖ったヤリが目の前に飛び出して来てビックリ」系の短編ものと違って、3時間ものあいだ違和感無く観られるクオリティのコンテンツが登場したということは大きい。
実際体験しないと言葉で説明するのは難しいが、「観るのではない。そこにいるのだ。」という宣伝のコピーの通り、「違和感が無い」どころか、まさにその世界に没入してしまった人も多かったかと思う。

3Dコンテンツ元年
後からコンテンツの歴史を振り返れば、この「アバター」は、恐らく3Dコンテンツという新しい領域が立ち上がる分水嶺になったという評価を受けることになるだろう。
コンテンツの世界の場合、こうした「イケてる」もの(「キラーコンテンツ」等)の登場で、事業成立の可能性についての周囲の認識は大きく塗り変わる。
例えばiPodが出る前のMP3プレイヤーや音楽コンテンツの世界は、泥沼の競争や違法コピーの横行で、誰もビジネスになるとは思っていなかっただろうが、アップルがiPodやiTunesを登場させたことで、その認識は一気に吹き飛ぶことになった。

同映画のパンフレットにあるインタビューで、キャメロン監督は、

僕はもう3D以外の映画を作ることに興味は無い。(略)「これはカラーにするといいぞ」と思うから、今みんながカラーで映画を撮っているわけじゃないのと同じ。

と、もう「3D」の世界から「2D」の世界へは戻らないことを宣言している。

同じく製作のジョン・ランドー氏へのインタビューでは、2002年にキャメロン監督が「3Dの時代が来る」と宣言したものの、業界では誰も信じなかったため、3D対応のシアターが100館出来ているか1万館出来ているか予想がつかない状態で映画会社を説得して、「アバター」の製作を開始することになったことが述べられている。

ご案内の通り、映画産業は投資を「映画館」だけで回収するのではない。映画は映画館でロードショー上映された後、地方の映画館を回り、テレビで放映して放映権料を得て、最終的にDVDやBD(ブルーレイ)のレンタルやセルで家庭からキャッシュフローを得るといったライフサイクルで成り立っている。

しかし少なくとも現在のところ、家庭用の3D機器は全く普及していない。また、この「アバター」を観るために家庭に3D機器が普及するというところまではすぐには行かないだろう。

家庭用の3D機器は、すでに日本の家電メーカーなどから発表されているが今ひとつピンと来なかった。しかし、「アバター」の登場により、映画会社や家電メーカーに3Dの可能性を認識させ、消費者にも「3D機器のある未来の家庭」を想像させることになるだろう。

消費者はコンテンツがあって初めてこうした機器を買うわけだが、機器がなければコンテンツを作っても採算に乗らない。つまり、新しいコンテンツの領域が立ち上がるときには「卵とニワトリ」状態が発生する。
「アバター」は、そうした3D普及の「尖兵」とも考えられるし、経済合理性を超越したキャメロン監督の「アニマルスピリット」によって、機器が普及しなければコンテンツも作れないという卵とニワトリの関係をブチ破ったとも言える。

昨今、大画面やハイビジョンの登場で、映画館で映画を見るメリットは徐々に失われつつある。家庭に3D機器が本格的に普及するにはまだ時間がかかるならば、そのタイムラグの間、3Dは「映画館」という業態が生きながらえる原動力になるかも知れない。

デジタルによる「代替」
キャメロン監督は、90年代前半からこうした映画を撮りたかったが、周囲に「まだ無理ですよ」と反対されて「アバター」を棚上げにし、「タイタニック」を作ったそうだ。今回、この「アバター」が可能になったのは、その間のソフトウエア的蓄積もさることながら、画像処理チップ等のスピードが幾何級数的に上昇していく「ムーアの法則」のおかげが大きいだろう。すなわち、3Dのコンテンツを作る時間やコストが減少していく傾向は今後も続くだろうし、3Dで可能になることの範囲も拡大していくはずだ。

こうしたコストの低下により、現在人間が行っていることは徐々に「デジタル」の世界に代替されていくことになる。

今起きている新聞社の苦境が好例かも知れない。
前にブログにも書いた通り、インターネットが商用化された90年代中盤には既に、
「インターネットが発達すれば、情報を伝達するコストは限りなくゼロに近づき、新聞社などメディアの経営が危なくなるのではないか?」
といった警鐘をならす人はたくさんいた。しかし、マスコミの人からは、
「全国に記者がいる体制がネットで代替できるわけない。」
「きちんと文章を書く教育を受けた記者を代替できるわけがない。」
という意見も聞かれた。

現状を考えてみれば、結果としてみればどちらも正しかったことがわかる。
すなわち、今、ネットで流れる情報は未だ新聞社から発信されたものが多いし、「紙」のような取扱いのしやすさもなければ一覧性もなく、文章のクオリティが低いものも多い。「新聞や雑誌と同じクオリティを持つメディア」は未だネットには登場していないと言えるだろう。
しかしそれでも、新聞社や出版社は苦境に陥っている。

つまり、デジタルによる「代替」は、「全く同じもの」が出現せずとも、大きなインパクトになるのだ。
「リアル」な世界でコンテンツを作り配信するには膨大な固定費が発生し、成熟した産業では損益分岐点の高い事業構造になるため、ちょっとだけ需要が落ちるだけで赤字が発生する。つまり、新聞や雑誌への需要が「ゼロ」になる必要は全く無い。損益分岐点比率が90%なら、10%需要が落ち込むだけで「苦境」が発生することになる。

デジタルな演算や通信コストの低下が今後も続くことにより、コンテンツに限らず、その他の「リアル」なものも徐々にデジタルで「代替」されていくことになる。

例えば最近、私は海外旅行をするインセンティブが非常に下がっている。テレビを地デジに買い替えてから、今まではほとんど見なかった「世界遺産」系の番組や「世界の車窓から」などを見るようになったが、こうした番組は海外旅行を「代替」するパワーを持っていると思う。
「バカな。実際に旅行した体験とテレビが一緒のわけがない。」と一笑に付されるかも知れないが、例えばバチカンのシスティーナ礼拝堂やフィレンツェのドゥオーモの天井画は、肉眼で見るよりも地デジで見た方が細部までよく見えるし、オペラグラスで見るより視野が広い。常に最高な天気やライティングで撮影される地デジの番組は、街の風景も空気の匂いまでただよってきそうだ。

美術関係者が「目垢が付く」という表現を使うことがある。高級な美術品も、実物が人目に常にさらされたり写真が広く出回ったりすると(モナリザなどの超大作はさておき)、普通は見飽きて価値が下がってしまうのだ。
私は今年に入ってからイタリアの世界遺産だけでも十数回テレビで見て、かなり世界遺産に飽きはじめている。わざわざ狭い機内に十数時間も揺られてヨーロッパやアメリカまで旅行しようという気も失せようというものだ。
(余談だが、「ネットじゃ料理は食えないだろう。」というのは確かにそうだ。しかし、イタリアや中国で仕事をしているビジネスマンに聞くと、「イタリアンや中華は東京で食った方がうまい。」という人が多い。さすがミシュランの星が世界一多い都市、東京!このように、「ネット」で代替しづらいものを持っている「リアル」は強く、最後までネットに代替されずに残るだろう。)

これが「3D」(加えて「インタラクティブ」)ともなれば、デジタルで「代替」可能な範囲はさらに拡大する。

今日本で発生しているデフレは、「ユニクロ型デフレ」と呼ばれるような、新興国との価格競争による価格低下が一つあるが、もう一つ、「ムーアの法則型デフレ」が着実に進行しつつあると思われる。毎年、演算速度やネットの通信速度は幾何級数的に増大し、コストは劇的に下がっている。10年前にはどんな金持ちも体験できなかったことが、非常に安いコストで体験できることになってきた。

例えば私が若い頃、自動車は「移動の手段」というだけでなく「コミュニケーション」の手段でもあった。携帯電話やメールが普及しておらず、固定電話の通信費が従量制で高い時代には、彼女と話をするにも、実際に会う必要性が高かったし、車内で会話したり同じ音楽を聞くことは重要なコミュニケーションだった。ところが今は、携帯電話やメールでいくらでもコミュニケーションが取れるから、今どきの若者は、是が非でも車を買おうという気は無いようだ。20代の人に「自動車がなくてデートとか不便じゃない?」と聞いても「別に。電車で十分スよ。」と言う。
こう考えると、自動車への需要は、劇的に下がるデジタル情報通信によって代替されている側面があると考えられる。しかし、恐らく、自動車会社の人は携帯電話会社を敵視してはいないだろうし、自動車会社の雇用を失った失業者も携帯電話を叩き壊すことはないだろう。情報通信は既に人々の生活の隅々にまで浸透し、「なくてはならない存在」になっているからだ。

「色即是空」という言葉の「空」を「情報」という言葉に置き換えると理解しやすいと思うが、我々が認識している「現実」とは、すなわち視覚や聴覚と言った「情報」を認識しているに過ぎない。人間が行う仕事も、よくよく考えるとほとんどは情報で「代替」できるのである。

「モノを運ぶ」という仕事は、一見、デジタルでは代替できないが、その「モノ」が書類であれば、PDFファイルをメールに添付して送付することで済んでしまう。
また、うちの自宅と事務所の床は、ロボットの掃除機の「ルンバ」が掃除してくれているが、これと同じ機能を10年前に実現しようとしたら、たぶん何十キロの重さで百万円を超える値段になってしまっていただろう。本来、家政婦や清掃業者が行うべき労働が「デジタル技術のデフレ」によって奪われてしまっているとも言える。

その情報・通信の処理コストが劇的に下がり続ければ、あまり複雑でない仕事しかしていない人間から順に、デジタルで代替されていくことになるだろう。
そして機械やネットでは代替しにくい「イノベーション」や「クリエーション」を成し遂げる者や、情報の「プラットフォーム」を構築した者など、「参入障壁」を構築できた一握りの企業や人間に利益が集中し、強い競争にさらされる単純な労働ほど、報酬低下や雇用喪失の圧力を強く受け続けることになる。

今起こっている「デフレ」の一部は、まさにそうした変化であり、今はその端緒に過ぎなくても、その傾向は情報通信コストが減少し続ける限り、今後ますます強まることになるだろう。

現実とバーチャル
「エイリアン」も「アバター」も民間企業が宇宙を開発する未来を描いているが、実際に、恒星間航行までして経済的に採算が合う事業があるとは考えにくい。
恒星間航行どころか、人類は月に行くことすら止めてしまったし、私が子供の頃のSFに出て来たような空飛ぶ自動車も普及する兆しはまったくない。そして、携帯電話やパソコンなどの情報通信だけが当時のSFの予想すらはるかに超えて進化し続けている。なぜなら、情報通信のコストの方が、そうした「リアル」な社会の変化に必要なコストよりも圧倒的に安いからである。

1965年に書かれた光瀬龍のSF小説「百億の昼と千億の夜」では、エントロピー的な死を迎えつつある人類の未来の姿として、狭い部屋に閉じこもってチューブで栄養の供給を受けながら「画像」を見つめるだけの「市民」が描かれていた。
今年の夏に公開された細田守監督の映画「サマーウォーズ」では、「ネットのバーチャルな世界」と「現実の世界」のどちらも大事で、それは共存できる、というメッセージが含まれていたが、この「アバター」は、「百億の昼と千億の夜」と同様、一度「向こうの世界」に行ってしまうと「現実の世界」に戻って来れなくなることを示唆しているように思える。

幸い、「セカンドライフ」を見てのとおり、現実の世界と見まごう三次元の仮想世界でリアルなCGがインタラクティブに動く世界がすぐに到来する気配はなく、日常のほとんどのことがネットで代替されてしまう未来までには、少なくともあと10年か20年程度の時間の余裕はありそうだ。

我々はこの間に何をすればいいだろうか。

百億の昼と千億の夜に出て来る「市民」のように、仮想の世界で楽しい生活を送る未来を受容するか、少数の「リアル」を代替する側に回るか、それとも情報通信技術の進化を止め、「人間の仕事」を残す道を模索するか。
どの道も必ずしも人類全体が幸せになる道とは思えない。

アバターを見終わって、そんなことを考えた。

一回では物足りないので、これからもう一度、今度は、IMAXシアターで「アバター」を見て、もう一度考えてみることにしたい。:-)

(ではまた。)

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