暗黙知は職人芸ではない - 『マイケル・ポランニー 「暗黙知」と自由の哲学』

池田 信夫

★★★☆☆(評者)池田信夫

マイケル・ポランニー 「暗黙知」と自由の哲学 (講談社選書メチエ)マイケル・ポランニー 「暗黙知」と自由の哲学 (講談社選書メチエ)
著者:佐藤 光
販売元:講談社
発売日:2010-01-08
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マイケル・ポランニーというのは、日本ではそれほど著名な哲学者ではないが、「暗黙知」という言葉は聞いたことのある人が多いだろう。特に日本のものづくりを賞賛するとき、設計図のような「形式知」に対して職人芸のような「暗黙知」を対比し、日本の製造業の強みを後者に求める議論が、一時流行した。

しかし本書も指摘するように、こういう議論はポランニーとは無関係である。彼の提唱した暗黙知は、形式知と対立する特殊な知のあり方ではなく、およそ人が外界を認識するとき、最初に必要になる枠組だ。化学者だった彼は、この概念を科学的発見の論理として考え、これがのちにトマス・クーンの「パラダイム」の概念となった。「古い脳」でできる暗黙知が合理的思考の基礎になっていることは、最近の脳科学でも確かめられている。

こうした誤解をただすことは重要である。というのは、日本ではポランニーの知識論を企業内の人的関係による情報共有に矮小化し、暗黙知が「すり合わせ」のようなアナログ的コミュニケーションを正当化するのに利用されてきたからだ。そういう技術が日本の製造業の強みであることは事実だろうが、デジタル技術の世界では、こうした職人芸はソフトウェアに置き換えられ、国際競争の中では重要でなくなっている。すり合わせにこだわって顧客ごとに細かくカスタマイズしたことが、日本のIT産業の「ガラパゴス化」の一つの原因だ。

ポランニーの知識論はハイエクにも影響を与え、彼が『感覚秩序』を書く契機になった。ポランニーの「自生的秩序」は、後期ハイエクの中心思想になった。ポランニーの秩序概念は詳細にみるとハイエクとは違うが、社会主義の最盛期だった20世紀なかば、彼の兄カール・ポランニーが社会主義を「大転換」として賞賛したころに、それを原理的に批判した点では、ポランニーの功績はハイエクとともに先駆的である。

ただ本書は、ポランニーの経済学や社会論などを一通り紹介したもので、知識論について突っ込んで考察しているわけではない。彼の経済理論は今となっては価値はなく、宗教などについての議論もさほど興味あるものではない。ポランニーの知識論に興味のある読者は、『暗黙知の次元』を読むことをおすすめしたい。

コメント

  1. kouji murakami より:

    ガッテンダ!
    ●的を射抜いていると思います。
    日本向けの商品開発が、海外で受け入れられなくなって来た理由「要因」の一つには、技術(特許やソースコード)を開示しない、秘密主義や自己本位で開発する。
    Product development for Japan, why is not accepted in foreign countries came “factor” as one of the Technology (patents and source code) do not disclose that developed in secrecy and self-interested.
    村上光治 むらかみこうじ
    kouji murakami cello-murakami Muse livedoor
    今日も「ネット・・・」からでした。ではまた。

  2. disequilibrium より:

    そういった職人芸や、秘密技術は、徐々に重要性を失っていくものだとしても、今現在では、あるいは過去では重要なもので、技術流出を正当化できるものではないと思います。
    アナログ技術をデジタル化する際にも、必ずモデル化が必要になり、優れたモデルを構築するには、優れたアナログ技術の全容を把握している必要があります。
    もちろん、1度デジタル化してしまえば、誰でも模倣できてしまうのですが。それを守るのが特許です。
    今の日本では、旧来の技術の秘密を「守り」、そして、デジタル化と特許先行取得の「攻め」の両立を図っていくことが重要だと思います。
    また、特許を尊重しない国や企業に対抗するために、特に価値の高い製造技術を完全に隠すことも必要です。

  3. kouji murakami より:

    disequilibriumさまぇ
    ●balance(平衡)
    私が、若い頃に上司から技術教育を受けた時に言われた言葉から、
    「技術は、広く公開するものだ」
    それが、本当の「知的財産権」などの特許戦略だと言う事を教育されましたね。
    なんでも公開するのではなく、重要な技術「コア」の権利化を図り、公開する。
    その最も基本的なのが、日頃からの「技術報告書」などの「ドキュメント化」だと言う事。
    これで「平衡」すると思いますが、如何でしょうか・・・。
    村上光治 むらかみこうじ
    kouji murakami cello-murakami Muse livedoor
    今日も、とても冷えますね。
    ではまた。

  4. disequilibrium より:

    kouji murakamiさまへ
    ある集団の中で、技術が広く公開されることは、その集団の利益になります。
    日本の様々な技術が、世界に公開されることは、世界の利益になるでしょう。
    しかし、それが日本の利益になるとは限らないのではないかと思います。
    特許戦略もまた、特許を無視する国や企業相手では役に立ちません。
    それぞれの主体(企業だったり、個人だったり、国家だったり)にとっての、技術公開による利益と不利益、そのバランスが重要なのではないかと思います。
    特にこの国は、秘密を守るのが苦手なようなので。

  5. 海馬1/2 より:

     え~と?暗黙知って、「いちいち定義を確認し合わないこと」
    ですよね?
     『携帯電話』のガラパゴス化ってのは、日本人の「携帯電話」のイメージ(定義)が西欧文化で必要とされる情報端末とズレがあるということではないんですか?
     この種のズレは、ゼロ戦の時からあるんですよねw
    ドイツ人の技師がゼロ戦ではないけど日本の戦闘機に試乗して「これがちゃんと乗りこなせたら、最強だろう」と言った逸話は広くしられています。 
     文化や生活様式が違うことで、写像の違いから、考え方の手順が違うことは、温存しておいた方がよろしいんじゃないんですかね。思考の袋小路にハマッタ方を傍から見てる(ことができる)のは面白いですよねw

  6. 海馬1/2 より:

    「暗黙知」の説明に一番解りやすい事例をおもいだししました。
     直径10ミリの穴に10ミリの丸棒は入る(通る)か?と質問すれば良いのです。
     つまり、逆に職人側に言わせれば、『絵に描いた餅』「あたまでっかち」のことですね。
    耐震偽装が、仕様書や図面で見抜けなかったけど、現場の親方には、「手抜き」としてバレいたことですねw