iPad対Kindle、勝負あり。そして出版の未来。 - 磯崎哲也

磯崎 哲也

(訂正あり:2月12日20:24分)
2010年1月27日にAppleがiPadを発表し、今年は「電子出版元年」ということになっている。
しかし一方で、ネット上で有料の電子出版で儲けることは容易ではないと見られている。「ペニーギャップ」(1セントの壁)という言葉があるように、「タダ」のものと「有料」のモノには大きな壁があるからだ。

ここで思い出していただきたいのは、昔、無料のMP3の音楽ファイルが山ほど出回っていた時にはネットでの音楽販売を儲かる事業にするのは極めて困難と思われていたにも関わらず、AppleがiPodやiTunes Storeを発表して、音楽を儲かるビジネスに変えてしまったことだ。
また携帯電話上でも、月300円程度のサービスを結構簡単に申し込んでしまい、そのままになっているということはよくある。心当たりのある方も多いのではないだろうか。

つまり「ペニーギャップ」なるものの正体は、「課金やインターフェイスの取っ付きにくさ」だと考えられる


どんなによさそうなコンテンツでも、それ1冊を買うためだけに、わざわざクレジットカード番号を登録し、ダウンロードの方法を覚えるのは非常に面倒だ。それ以前に、そもそもクレジットカード番号を入れて良い安心できる業者なのかどうかにも悩まないといけない。街の本屋で本を買うならレジで数十秒で済むところが、ネットで最初にコンテンツを買おうと思ったら、上記のような検討も含めて数時間かかってしまうだろう。
しかし、一旦、iTunes Storeや携帯電話の自動引き落としの登録をしてしまえば、1セントと言わず300円くらいのものでも、どんどん買ってしまうのである。数回クリックするだけなら、わざわざCDショップや書店に出かけて行くより格段に壁が低いからだ。

つまり、ネットのコンテンツ販売で鍵になるのは、販売の「プラットフォーム」を構築するということだ。1度プラットフォームが出来てしまえば、上述のとおり、顧客は他のプラットフォームに乗り換えるのが非常に面倒になる。ユーザー数が圧倒的に増えれば、使い方を知っている人も他の人に教えやすくなり、ユーザー数トップのプラットフォームがさらに雪だるま式にユーザー数を増やすということになる。
プラットフォーム側のコスト構造から考えても、サービスの開発費がユーザー数で薄まっていくので、ユーザー数が多いところが、より使いやすいサービスをより安いコストで提供できることになる。

このため、こうしたコンテンツのプラットフォームは、自然に世界でせいぜい2-3社の寡占状態、または独占状態になっていくものと考えられる。

この出版コンテンツのビジネス規模をざっくり考えてみよう。
仮に将来、世界で3億人の人が年間平均3万円ちょっとを出版物に使い、プラットフォームが売上の30%を手数料で抜くとすると、プラットフォームの売上は年間約3兆円 になる。
書籍と違って店頭でレジを打ったりトラックで輸送したり在庫を数えたりということなく、中心的な業務は巨大な数のサーバ群が自動的に行うわけだから、利益率も高くなる。事業価値数兆円以上になる巨大ビジネスが誕生するわけだ。

私も「電子出版」にトライしてみようと思って昨年4月から「週刊isologue」という定期刊行物を、メルマガの課金プラットフォーム「まぐまぐ」上で出している。
(ちなみにメルマガは課金のプラットフォームとして使っているだけで、本文はメールでなくwebで図表入り。
おかげさまで、昨年度の「まぐまぐ」の有料メルマガで購読者獲得数1位をいただいた。)

この「週刊isologue」の昨年の9月の第24号「『紙メディアの無い世界』の覇者は誰か?(後編)」では、電子書籍ビジネスで先行するAmazonその他の企業が、当時発売が噂されていたAppleのiPadに勝つ事は難しいだろうと予想している。

「プラットフォーム」は世界規模のビジネスになるので、サービスの開発費やマーケティング費用を考えると、年間の利益が数千億円規模で出ている企業でないと厳しいと考えられる。
Appleは年間約1兆円の昨年暦年で9,358百万ドルの純利益を生み出す企業だが、Amazonの昨年度の売上純利益は902百万ドルでAppleの10分の1規模しかない。ハードの製造技術や、マスマーケティング等、どこをとっても残念ながらAppleにかなう要素が無い。

Kindleを実際に触ってみると、iPhone(3GS)を使い慣れた目には反応速度が遅過ぎて苦笑すらしてしまう。確かに「本を1ページずつ読む」のには十分かも知れないが、本のいいところは「パラパラめくれる」ところでもあって、次のページに行くのに数秒かかるようではイライラすること必至だ。

Kindleに対抗するiPadでのコンテンツの使い勝手を想像するために、昨晩、小飼弾さんの電子版書籍「弾言」をiPhone(3GS)にダウンロードして読んでみた。これはiPad用のフォーマットではなくiPhone用のアプリケーションの形式で作られているものだが、全くストレスなく、サクサクとページをめくることができる。iPadの大画面でなら、これ以上に読みやすいのは確実だろう。

Amazonですらそうした状況なので、いわんや、日本の財務力の弱い出版社が何社集まってプラットフォームを作ろうとしても、大変申し訳ないが、全く太刀打ちできる感じはしないのである。
もちろん「ホームページを作るだけ」なら、うまくやれば数十万円で出来てしまうかも知れない。しかしAppleが大量のテレビCMを投下するのに対抗して勝つのは、マーケティングだけを考えても数十億円程度の軍資金では極めて困難だろう。

おまけに、勝負は実際に金が尽きるまで戦って決まるのではない。
こうしたプラットフォーム・ビジネスは、みんな勝ち馬に乗りたいので、「成功しそう」だと思われることが極めて重要であり、「成功しそう」と思えるものは実際に成功することになる。
勝負は、最初の出だしで誰の目にも明らかになってしまうはずである。

小中学校の教科書などの用途もあるので、今後、紙の出版物が急に全滅するなんてことはもちろんありえない。しかし出版もビジネスなので(日本の出版社は一般のビジネスの常識からかけ離れた施策を取る企業も多いので単純には予想できないが)、損益分岐点を割り込むものを中長期的に売り続けることは困難だし、粗利がより大きいチャネルがあれば、そのチャネルでの販売を試みるはずだ。

私は、かつてのISBNコードや書籍JANコード(書籍に付いているバーコード)の導入検討のスピードから考えても、日本の主な出版社が電子書籍に対応するのは、10年から15年かかってしまうかな、と考えていた。
しかし、バーコードは、各書店にバーコードリーダーが普及しないと出版社が付ける意味が無く、書店がバーコードリーダーを導入しようにも、実際にバーコードが付いていないと意味がないというネガティブなスパイラルが当初働いていたのに対し、Appleが「プラットフォーム」を用意すれば、電子出版物を売るのに業界で歩調を合わせる必要はない。個々の出版社が(あるいは著者自身が直接)そこで販売をするかどうか決断すればいいだけだ。

事が転がり出せば、主なビジネス書や技術書などがほとんど電子出版として読めるようになるのは、今から2~3年後、早ければ1年ちょっと先かも知れない。

以上のとおり、恐縮ではあるが、結論は「Apple一人勝ち」という面白みのないものになる。
私も書棚が足りないこともあって、昨年末に事務所をより広いところに引っ越したが、電子書籍になれば、そうした不動産コストをかけずとも、手で持てるデバイスの中に読み切れないほどの書籍を詰め込むことができる。消費者にとっては(そしてうまく立ち振る舞う出版社にとっても)電子書籍の普及は万々歳になるはずだ。

しかし、私はAppleファンであり製品も愛用してはいるが、Appleを手放しで礼賛してるのではない。
その逆に、電子出版に期待しつつも、日販・トーハンを中心とする現在の出版物の流通よりもさらに寡占度の高い世界的「プラットフォーム」が出現する未来に、一抹の危うさを感じているのである。

ご参考資料[PR]
「週刊isologue」24号「『紙メディアの無い世界』の覇者は誰か?(後編)」
http://www.tez.com/blog/archives/001456.html

コメント

  1. forcasa3 より:

    > どこをとっても残念ながらAppleにかなう要素が無い
    単に企業規模の大小で勝敗が決まるのなら、「イノベーションのジレンマ」なんて起こりっこ無い筈ですが。
    日本の出版業界が負けるとの予測は同意です。