尖閣ビデオ流出事件で考えたこと - 藤沢数希

藤沢 数希

日本国政府が公開を拒んできた尖閣諸島での漁船衝突事件のビデオが、動画投稿サイトのYouTubeに11月4日に流出して、ツイッターや2chなどで騒然となった。これに対して政府は流出させた「犯人」を捕まえるべく、GoogleからIPアドレスなどのデータを差し押さえて刑事事件として捜査していた。新聞報道等によれば、本日、犯人と思わしき人物が出頭したとのことである。


政府、検察、そして記者クラブ関係のマスメディアで構成される日本の権力のトライアングルの中で、権力側に都合のいい情報がマスメディアにそれとなくリークされ、それをテレビや新聞が報道するというのは日本ではお馴染みの風景だ。しかし今回は政府側の意図せざる情報が、マスメディアとは対立している、あるいは下に見られているYouTubeというネットメディアで公開された。インターネットですでに多くの人が見終わったビデオを、半日も遅れてから権威あるマスメディアが後追いで報道していたのである。こうして「犯人」は日本の国家権力のど真ん中の人たちのメンツを潰したのである。ある意味で痛快な事件であった。案の定「犯人」はネット上で多くの人から賞賛されているようである。

さて、外交面や上で述べたような事件の構図に関しては、さまざまな識者による言説がすでにネット上に溢れているので、筆者は今回は別の観点からもう少し「情報社会」について考察したい。

古今東西、権力や権威といったものの源泉は常に情報だった。また商取引でも儲けの源泉は多くの場合情報の非対称性だ。つまりより重要な情報を持っている者が情報の流通経路をコントロールすることにより、情報を持っていない者を支配するのだ。こういった支配、被支配の関係は現在でも日常生活の至ることころで観察される。

会社では上司は人事上の重要な情報を握っており、部下にはそういった情報が伝わらないように厳しく情報を管理している。こうやって上司は自らの優位性を保持しているのだ。また会社もそうやってマネージャーたちを支配している。戦時中の日本国政府なんてひどいもので、国民は一切の正確な情報を知らされず、健気に日本の勝利を信じて竹槍で戦っていた。ふつうの人が医者や弁護士のことを「先生」と呼んで、自分が客であるにもかかわらず下手に出なければいけないのも、医療や法律に関して持っている情報に圧倒的な差(非対称性)があるからだ。筆者も金融業に関わるビジネスマンとして、金融が儲かるのも情報の非対称性を巧みに利用しているからという事実は否定しない。肯定もしないが。

今回の尖閣ビデオ流出事件は、政府という権力、権威が持っていた情報が、YouTubeというネットメディアに流出してしまった。政府側の人間が怒るのも無理はない。この情報をコントロールすることにより得られる権力や権威といったものが一瞬の内に失われてしまったのだから。このようにYouTubeに代表されるテクノロジーは、以前にはあった情報格差、情報の非対称性をどんどん低下させている。テクノロジーによってかつての情報による、支配、被支配の関係はずいぶんと様変わりしてきた。

政府には昔のような権威はないし、よく物を知っているはずの学校の先生も昔のようには尊敬されなくなった。先生が知っていることなど塾でいくらでも教えてもらえるし、インターネットでいくらでも手に入るからだ。また、多くの職種で長い実務経験が必ずしも競争上の優位性にはつながらなくなってきている。それゆえに上司が部下を従わせることも難しくなっているように思う。上司が持っている情報の優位性もやはりインターネットなどの新しいテクノロジーによって脅かされているからである。一昔前は機関投資家と個人投資家の間には大きな情報格差があったが、今ではそれもほとんどなくなった。日本の受験勉強で重要なのは一にも二にも記憶力、あるいはつまらない記憶を我慢してやり続ける忍耐力だが、こういった受験勉強により証明される能力、つまりいい大学の卒業証書もかつてないほどその価値が低下している。教科書の知識などいちいち記憶していなくてもインターネットでいくらでも調べられるからだ。

さて、このままこのように情報格差がなくなっていくと世界はどのようにになるのだろうか? ドラッガーなどは、電力会社や食品会社、Googleのようなインターネット上のインフラを作る会社などの、誰もが必要とするモノやサービスを提供する超巨大企業と、デザイナーや投資家などの個人単位で活躍するクリエイティブ・クラスにわかれていくだろうといっていた。そして多くの人が巨大企業の従業員として単調な仕事をして、その見返りに比較的多い余暇を楽しみ、一部の人たちがクリエイティブ・クラスとして個人単位で活躍するのだろう。そういった世界では、現代の企業のように人による人の支配といった関係はずっと少なくなっているはずだ。

筆者自身はそういったフラットな社会の到来を心から楽しみにしているし、インターネットには確かにそういった力があると信じている。しかし現実の世の中は、まだまだ旧態依然とした、情報の優位性によって人や組織が、別の人や組織を支配するという仕組みで動いているよう思われる。その情報の優位性といったものがどんどん小さくなっているにも関わらずだ。後、何年待てば、未来学者がいうようなフラットな社会が訪れるのだろうか。

コメント

  1. awa502 より:

    ちょっと違う事を考えてしまったのですが、藤沢さんのおっしゃるようなフラットな世界が訪れれば、クリエイティブクラス以外の労働の価値が極小化するので、大多数の人は賃金収入のみでは生きていけなくなるのではないかと思いました。
    大雑把なイメージだと年収600万以上稼げる人は全人口の5%以下で、半数の人は年収200万程度に落ち着くんじゃないかと。
    なのでそういう人たちは会社からは解放されてもベーシックインカムのような仕組みが必要になってくるんじゃないでしょうか。

  2. ismaelx より:

    書いておられることを読んでると、社会主義にお砂糖をまぶしてフラットな社会と言っておられるように感じます。

  3. green_dolphin_1113 より:

    興味深い指摘だが、この問題に対する賢いアカデミックな考察や指摘はほとんど意味がない。海保職員をどう扱うのか、彼について何を言うのかという判断を警察も検察もマスメディアもブログも迫られている。国民全体が迫られている。

  4. galois225 より:

    情報格差の消失がフラットな社会を作るというのは、極めて疑問です。 確かに情報そのものは簡単に手に入る社会になっていますが、それを分析したり、意味を抽出するには個人の能力必要です。 たとえば、経済動向は分かっても、自分の投資戦略に役立てられるか、といったようにです。 

    これからは、記憶力が物を言わない時代になることは確かですが、個人個人の裸の能力、つまり肩書きを取り去った個人の能力が試される時代になるということではないでしょうか。

    喩えるならなら、プロ野球の世界のような。

  5. Dr. OK より:

    面白い話であるけれども、単に我々は、情報が簡単に手に入りやすくなったと言うだけで、情報「入手」格差が縮んだ、というだけにすぎません。一方的な情報を得ることの優位性が無くなることで、これまで情報で優位だった立場の人間との差は多少の解消はなされますが、実際にはそれは小さいはずです。なぜならば情報がいくらあふれていても解釈が出来なければ情報は意味を成さないからです。
    尖閣の問題は構図的には中国がこれまでの暗黙のルール(魚をとることは一々文句を言わないが、公務執行妨害までは許されない)を破ったことがビデオで分かり、それは国民誰でも分かりうる比較的単純な事象です。
    医学にしろ法律にしろそれらは膨大な情報を一つ一つ解釈をつけてやはり「脳を介して記憶し解釈しその解釈も記憶する」することでしか意味をなしません。(なぜ有名大学の卒業証書の意義が減ったといえるのかさっぱり分かりません)

    殆どの人が「貴方の左冠動脈が粥状硬化症により血流が途絶しかかっており安定型狭心症の診断です。左室壁の運動が通常の60%程度の駆出です」と言われて、これらを数時間かけてインターネットで調べてなんとか全て理解しても、分からないことをその場で医者に説明してもらう以上の利益は何もありません。利益があるとすれば別の病院に名医がいるという程度ではないでしょうか。だけどそれすらインターネットだから極端にその情報が制度が増しているようにはとても思えません。

    単に情報が増えた、手に入りやすくなったという時代が来ただけでその次のステージは実は変化が思ったほど無いはずです(現実に今ないですよね)。今回のビデオだってマスコミが焦っているのであって、理由は本来はマスコミが関係者になんとかあたりをつけて裏からビデオを手に入れ国民の知る権利を得る、その義務をはたせなかっただけにしか見えません。

  6. ケット より:

    >そして多くの人が巨大企業の従業員として単調な仕事をして、その見返りに比較的多い余暇を楽しみ、

    多くの人は中国など世界の極貧層の水準まで労働条件が悪化し、老いて弱ったり厳しいマニュアル長時間労働に耐えられなかったりしたら飢え死にするだけでしょう。
    もはや経済にとって不用になるのですから。

    フラット化というのは、「思いやりのあるフラット主義」でなければ、きわめて多くの人にとって死刑宣告なのです。
    そして多数の中間層の没落は、巧妙に道徳や厳罰で社会を引き締め続けなければ治安や信用などの崩壊も招き、資本主義の前提自体を掘り崩すことになるでしょう。

  7. hogeihantai より:

    >Dr.OK
    「貴方の左冠動脈が粥状硬化症——」

    私は産業用ポンプの技術者ですが、会社で販売したポンプが破損した場合、「キャビテーションエロージョンと液中のクロールイオンによる粒界腐食の相乗効果でインペラーが破損していました。液温の上昇と過少流量運転によりNPSHが不足しキャビテーションが発生したものです。」と言っても同業者には分かりますが、一般の人にはインターネットで調べても理解不可能です。私たちは最初から客に分かる平易な言葉で、納得してもらうまで根気よく説明するのです。

    貴方の文章をみると藤沢さんが仰るよう、客を客とも思わないドクターの不遜と権威主義がよくわかります。

  8. wiizardry より:

    >一般の人にはインターネットで調べても理解不可能

    ええ? ポンプのキャビテーションとか、多少科学や技術的なことに興味があれば聞いたことがある言葉では。ってそういう人はもしかして「一般の人」には入らないのかな。
    でも「一般の人」でもちょっとググれば察しが付くんじゃないですかねえ。キーワードがどれか分かりやすくかつそれが理解を妨げている説明というのはむしろググることが有効な例だったり…