日本で、逮捕・起訴=有罪と言う誤認識が定着した背景には、刑事事件で99%を超える異常に高い有罪率があります。これでは独裁国家の出来レース裁判と同じです。
冤罪事件の真相が表に出るに従い、国民の検察不信が高まりましたが、この問題の根源は司法関係者が憲法を軽んじてきた事に有り、検察の問題に矮小化する事は危険です。
日本の司法の致命的欠陥の一つは、憲法第3章で「国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利で、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と定めながら、現行憲法の理念,条規に反する明治憲法を踏襲した下級法が幅を利かせ、司法官僚の大多数が、基本的人権より公権力を優先する考えの持ち主だという実状にあります。
冤罪事件に伴う長期勾留の裏には「犯罪を明示出来る証拠」の確保より、逮捕、起訴を優先し、長期勾留による無理な取調べで公判を維持しようとする公権力乱用思想があります。これは憲法第33条(何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となつている犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない)の明確な違反です。
又、米国のミランダ警告に見られる被疑者の人権擁護も、日本では対応するルールがないとして実施されていませんが、憲法34条,36条,38条の規定を厳格に援用すれば殆どがカバー出来る筈です。
憲法第34条の前段が、不当な長期勾留などの公権力の暴走を防ぐヘイビアス・コーパス(人身保護令状)に由来すると言われながら機能していない現状も、この機会を利用してグアンタナモ収容囚を巡って争われた米国最高裁の判決を参考にしながら活発な論議を展開して欲しいものです。
こうした事例でも明らかな様に、日本の裁判官が憲法の規定を厳格に解釈していれば、多くの冤罪は防げた筈で、長期勾留を簡単に許す原因と指摘されている検察官と裁判官との仲間意識を無くす為にも、未だに実現していない法曹一元化の実現が急務です。
今回の問題を司法全体に広げたくない当局は「検察のあり方検討会議」を発足させましたが、その委員会メンバーを見て、「またか!」と落胆しました。
江川紹子委員の「検察のあり方全体を見直すべきで、大阪地検特捜部だとかとんでもない検事がいたという問題ではない。」と言う主張には、同感を覚えますが、郷原信郎委員の「私は23年間、検事を務め、検察のいい面、悪い面の両方を知っている。」と言う不遜な発言には、司法の不正を摘発して、失職したり、自殺に追い込まれた下級司法官の存在を思うと「それなら、現役時代に何故検察の悪い面を指摘しなかったのか?身分を失うことを恐れて黙っていたと言うなら許せても、今更、委員として発言する資格はない!」と言う怒りさえ覚えました。被告席で弁明すべき立場の担木元検事総長が委員に選任されたなどは、論外です。
検討会議は法務大臣の諮問機関で強制力はありません。然し、検察の問題点を改善する全面可視化を含めた納得の行く処方箋が出たら、世論の力を使って実施させるべきです。
その様な時に「鎌田實医師の「頑張らない」と言う著書に、こんな文章があった事を思い出しました。曰く、
「現代医療に対して、臓器を見て全体を見なくなったという批判が出だしてから,ずいぶん時間がたった。なるほど、人間の病気を治していこうとするとき、臓器からアプローチしていくのは、効率的で合理的な接近の仕方だという考え方もあるだろう。―中略―然し医学は生物学とは違い、人間科学である。人間の疾病を部品の故障と言うようなデカルト的なとらえ方ををせず、対象の個別性やその人が生きて来た歴史に配慮し。それぞれの『生きている意味』を尊重して、治療していくべきではないだろうか」
中野孝次氏も「機械の部品のように個々の臓器を見做す医学は誤っていると信ずる。臓器は孤立してそれだけで生きているのではない。生命全体の中の一部分を受け持って生きているのであり、各部はお互いに不可分離的に作用しあっているのだ。-中略―それに対し漢方は常に人間の体全体を見る。全体を一つの生命体として見、その中のどこかに悪いところが生ずれば、全体との関連においてそれを癒していこうとする。」と鎌田博士と同じ様な考えを書いて居られます。
お二人の著書を読んで「司法制度は孤立して存在しているのではなく、国全体の一部分を受け持っているのであり、制度が機能していなければ『国家の存在する意味』との関連に於いてそれを正さなければならない」と言う感を強くしました。大局感なしに「臓器からアプローチする」医者に似た法律専門家に、司法改革を任せる訳には行きません。
コメント
一部だけの見聞で批判されているようです。
会議のメンバーの持論、意見、立場をご存じであれば、(メンバーの著書を多少なりともお読みになっていれば)、このような一部の発言をとらえての評価は間違いであるとお気づきになるでしょう。
もっとも危惧されるべきは会議の成果が実際の司法改革にいかされないことだと思っています。
もっと単純な気がします。
鶏が先か卵が先かという話はあると思いますけど、
公務員にありがちな俗物指向が許容されている問題だと思います。
庶民の目から見ると、
起訴したからには何が何でも有罪でなければならない。それで成果を査定する、
というやり方をしているように見えます。もちろん無罪ではマイナス評価でしょう。
そしてたぶん検察内部で誰も異議を唱えることができない、
宗教の教義のような不文律になっているのではないかと推測します。
そして良好な査定を勝ち取るためにマイナスな制度改革には、条件反射的に反対するのだと思います。
例えば米国では、検察は被告人に有利な証拠も開示する義務があります。
しかし日本においては検察の人事考課制度を覆す可能性をはらむ制度として
忌避されるのではないでしょうか?
圧倒的に検察に有利な制度が放置されているのは
業界にとって秩序をもたらすその制度維持を望んだ結果に見えます。
もっと言えば裁判官も同じ業界人として、刑事裁判の業界相場を認識し、
相場通りに振舞っているように見えます。
裁判の方は、裁判員制度で改善の兆しが見えます。
検察にも新しい風を吹き込んで欲しいですね。