パチンコと在日韓国人 〜マルハンと日本社会〜

宇佐美 典也

ども宇佐美です。
今回は最近続けているパチンコシリーズのエントリーです。

前回も含めこのシリーズではパチンコ業界と北朝鮮・朝鮮総連の(過去の)関係については何回かまとめてきましたが、今回はパチンコ業界と在日韓国人という視点で、パチンコホール大手のマルハンの辿ってきた道を簡単に見ていきたいと思います。

さてパチンコ・トラスティボードのデータによるとパチンコホール業界の2016年現在の売上規模は21兆6260億円とされています。最盛期の2005年の33兆6420億円に比べれば大幅に落ち込んでいるとは言えど、依然として凄まじい規模を保っていますね。ただこれは当初の投資から遊技を通じて返ってくる金額の再投資も含めた金額なのでパチンコ業界の実態経済規模はもっと小さいものです。

言葉だけだとわかりにくいので例を示しますと、例えばパチンコ遊技を通じて平均的に20%を店側に取られるとすると、はじめに1万円投入すると8000円返ってくることになります。そして、それをまた投入すると6400円、さらに投入すると5120円、、、、となるわけですが、これを限界まで続けたとすると、元手一万円の投資で、5万円分の遊戯ができることになります。

この場合パチンコ業界では「5万円を売上、1万円を(客の)純損失」と捉えるのですが、どちらがユーザーの肌感覚に近いかというと、売上よりも純損失ということになります。パチンコの控除率(という言葉が正しいかわかりませんが)は概ね15%程度と言われていますので、総売上は1÷0.15=6.6666…で純損失から6.7倍弱膨らんでいることになります。そのため、純損失ベースでは概ね3兆2442億円程度が国民の財布からパチンコに投じられていることになります。それでも大きい値には変わりませんね。

といきなり話がそれましたが、依然として総売上で21.6兆円規模、純損失ベース3.2兆円規模のパチンコホールですが、この業界は1位を独走するマルハン、それになんとか食らいつく2位ダイナム、その他ホールが後を追うという二強の構造が固まりつつあります。マルハンもダイナムも在日韓国人系の企業で、その意味では現在パチンコ業界は北朝鮮系の在日朝鮮人ではなく、在日韓国人によってリードされる業界になったと言ってもいいと思います。なお在日朝鮮人≠北朝鮮国籍なので悪しからず。在日朝鮮人の方に「お前北朝鮮と関係あるんだろ」と絡むことは自らの無知を晒すことになるので、気をつけましょう。

マルハン創業者、韓昌祐氏(公式サイトより)

そんなわけでパチンコ業界でシェア7.7%弱を誇ると考えられるマルハンですが、その創業者で会長の韓昌祐(ハン・チャンウ)氏は、在日韓国人でしたが今では日本国籍を取得しています。よく「マルハン」という社名について、「日の丸に対する恨(韓国語で「ハン」)を忘れないように」という思いで名付けられたというデマ、が流れますが、単にパチンコ玉が丸いということと、創業者の名前「韓(ハン)」を組み合わせただけというのが真相です。誰がこんなデマが広げたんですかね。

韓氏は韓国南部の現在で言うところの泗川市で1931年に生まれ、1947年に16歳にして日本に単身渡航(密航)します。1948年には朝鮮奨学会の支援を得て法政大学に入学してマルクス経済学を学びはじめますが、貧乏生活がたたって一時期結核で入院し生死の境を彷徨います。この時生活保護の適用を受けて治療費が全額免除になった上、国立病院の治療を受けることができたとのことで、韓氏は「いつか日本社会に恩返しをしたい」と強く感じたそうです。

1953年に法政大学を卒業するも、当時は在日差別が激しく就職に失敗、義兄を頼って京都府峰山町に移住しパチンコ屋の手伝いを始めます。当時パチンコは連発式ブーム(いわゆる第一期ブーム)だったのですが、1954年から1955年にかけて連発式が禁じられると、一転して反動の大不況に陥ります。その上峰山町のライバル店が拡張したことで、義兄は半ばパチンコ店の経営を諦めかけていました。それを逆にチャンスと考え、明確な日時ははっきりしませんが、この時期韓氏は義兄からパチンコ店「千波」を譲り受け、なんとか経営再建に成功します。

パチンコ店の事業が軌道にのってくると韓氏は徐々に多角化に乗り出し、1957年に喫茶店「るーちぇ」を開業します。この「るーちぇ」は非常に評判が良い人気店になったようです。さらに1958年にはパチンコ店を拡張して移転して「峰山カジノ」と名付け、日本人女性と結婚します、ただこの結婚は在日韓国人と日本人の結婚ということで親族の反発が強く、新郎新婦を除く出席者はわずか8名だったようです。

他方事業は順調で、1964年には喫茶店「るーちぇ」をレストラン「ルーチェ」として拡張して再オープンし、1965年にはパチンコホール2号店「豊岡カジノ」をオープンします。この時期チューリップに代表される役物が登場して第二期パチンコブームが訪れたこともあり、事業はますます軌道に乗っていきますが、そのまま勢いに乗って3号店を舞鶴店をオープンしようとするも、連日ヤクザが脅しに来たため這々の体で逃げ帰るということもあったようです。

この経験があったことや、峰山青年会議所(JC)への入会が在日韓国人という理由で許されない、金融機関がパチンコ業にはお金貸そうとしない、などといったことが重なり、在日とパチンコに対する差別を痛感した当時の韓氏はパチンコ業から徐々に離れることを考えるようになり、1967年からブームに乗ってボウリング業に進出します。そして1972年満を持して静岡県に巨大ボウリング場「アピア」をオープンしますが、このタイミングでボウリングブームが終了し、アピアは閑古鳥が鳴く巨大な不良債権と化してしまいました。1975年には韓氏は約60億円の負債を抱え、自殺を考えるまで追い詰められることになってしまい、パチンコ業に再び力を入れるようになります。このことについて韓氏は「マルハンはなぜトップ企業になったか?」において以下のように語っています。

「パチンコ屋と吐き捨てられるように言われるのがいやで、ボウリングに眼を向けた。で、結局パチンコに戻る。借金を抱えてね」

その後パチンコに回帰した韓氏はボウリング場の一部をショッピングセンターに改装する、ボウリング場の駐車場にパチンコホールを作る、などあらゆる手を駆使してなんとか経営を持ちこたえさせます。結果としてこれが郊外型パチンコ店の魁になり、徐々に経営が上向いてくるのですが、1980年になるとフィーバー機が登場し大パチンコブームが訪れます。俗にいう第3期パチンコブームですが、この影響で経営する西原産業(マルハンの前身。韓氏の日本名が西原だったため)は一気に経営を持ち直し、負債を完済します。

その後西原産業は1988年にマルハンと社名変更し、「パチンコ業はサービス業」という経営方針を掲げて順調に事業を拡大し現在に至ります。このようにパチンコホールとしてはトップに君臨するようになったマルハンですが、韓氏の経験から必ずしも業績とは直接的に関係ない、2つの経営方針が採用されています。

それは、上場を目指すことと、金融業務への進出です。前者に関しては資金調達というよりも「パチンコ業を表立って言える職業にしたい」という強い意思に基づく方針です。また別の機会に書こうと思いますが、パチンコ業界には釘問題・換金問題に代表される法的グレーゾーンがいくつかあるので、日本での上場が認められていません。経営だけ考えれば別にマルハンが上場する必要などないわけですが、それ以上に「パチンコを世間に誇れるような産業にしたい」という韓氏を中心とする経営幹部のこだわりから、上場を目指す方針が掲げ続けられています。これは同じ在日韓国系のダイナムも同様です。

後者の金融業への進出ですが、かつて銀行から差別を受けた経験もあって韓氏は金融業への進出にこだわりを持っていたと考えられ、2001~2002年にかけて在日資本の銀行設立構想(いわゆるドラゴン銀行構想)の旗振り役を務めました。これは失敗に終わりますが。その後実際にカンボジアで銀行を立ち上げています。

このように立志伝中の在日起業家になったマルハンの韓会長ですが、足下ではマルハンの売上は2013年3月期から落ち込みが目立つようになり、この時期2.13兆円あった売上は2018年3月期には1.55兆円まで落ち込んでいます。

この原因となったのはいわゆる「パチンコのギャンブル化の進展」で、パチンコ業界全体がギャンブル性を長期にわたって高めすぎた結果、パチンコが世間から受け入れられなくなり、ライト層が離れて遊技人口が大きく減少し、その上規制も強化されたことでギャンブル好きなコア層の客も減少する、という状況を招いてしまったことが考えられます。

この辺りの話はまた別にまとめたいと思います。
ではでは今回はこの辺で。


編集部より:このブログは「宇佐美典也のblog」2018年9月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は宇佐美典也のblogをご覧ください。