或る人から指摘されて、東大の国語の入試問題の第一問を読み、仰天した。冒頭に米国の哲学者リチャード・ホーフスタッターの「アメリカの反知性主義」からの引用があり、フムフムと頷きながら読んでいると、後半になって、突然何の脈略もなく、「知性というのは個人においてではなく、集団として発動するものだと私は思う」という言葉が現れ、これが全体の論旨になっている。最後に、これが神戸女学院大学名誉教授の内田樹さんの文章だった事が分かった。
マッカーシー旋風とホーフスタッターの著書
ホーフスタッターは優れた哲学者で、米国史を語る上では欠かせない人物でもある。彼は大恐慌の最中に米国ニューヨーク州のバッファロー大学で学び、後にコロンビア大学で博士号を取るが、在学中には「共産主義青年同盟」に加入していたという経歴もある。(但し、後には、ソ連と米国の共産主義者達の言動に彼は痛く幻滅している。)
この入試問題に引用されている「アメリカの反知性主義」は、1950年代の初めに米国で猛威を振るった「マッカーシー旋風」、通称「赤狩り」にも触発されて書かれた大著で、その内容は広範囲に及ぶが、その背景には「アメリカ社会が知識人を否認した」「知識人と大衆の間に巨大で不健全な断絶がある」という深刻な認識と、これに対する大きな危機感があった。
この時代は、朝鮮戦争が勃発して東西冷戦構造が顕在になった時代で、米国内には国際共産主義に対する強い反感があり、共産主義者に共鳴する人達は勿論、多少なりともリベラルな考えを持った人達は、「米国の利益を害する『非米活動』をしている」として糾弾され、その職を追われた。
これを極端で乱暴な形で推し進めたのがマッカーシー上院議員であり、1952年の選挙で大勝したアイゼンハワー大統領とニクソン副大統領が率いる共和党政権は、当初はそれをサポートした。知識人にはリベラルな考え方をする人達が多かったので、これを目の敵にする「愛国主義に突き動かされた大衆」は「反知性的」と見做されたのも当然だった。
東大入試に引用された「アメリカの反知性主義」の中の文章は、この本の中のほんの一部であり、むしろ本筋でない部分である。「反知性の人達も一見すると知性的に見えるから注意すべき」というのがこの文章の肝であり、勿論「事実の列挙」や「そこから論理的に結論を導き出すという手順」自体を「反知性的」としているわけではない。むしろ、途中で強引に出した結論を絶対的なものと決めつけて、そこで思考を停止させてしまう「不徹底で、中途半端で、独善的な知性」を、「反知性」という逆説的な言葉で攻撃しているものと思われる。
内田樹教授の奇妙な論理展開
さて、この文章を書いた内田樹という人は、東大仏文科の出身だが、安倍首相を「独裁」「反知性」と決めつけているところなどは、「安倍に言いたい。お前は人間じゃあない。叩き斬ってやる」という演説で有名になった北海道大学の山口二郎名誉教授とほぼ同じである。
(山口二郎さんの問題点については、「必要な学者の再定義」と題する1月28日付の私のアゴラ記事をご参照願いたい。但し、内田樹さんの方は、合気道七段で居合道の達人でもある本物の武道家なので、さすがに「叩き斬ってやる」などという物騒な事は言ってはいない。)
因みに、この人の過去の発言をチェックして見ると、「共産党はマルクス思想の本質を理解するラディカルな政党であってほしい(アカハタの取材への回答)」「憲法九条と自衛隊がリアルに拮抗している限り、日本は世界でも例外的に安全な国でいられると私は信じている」「日本人は原理原則が行動原理ではないので、憲法もあいまいなままでよい」「地方自治体の首長は教育行政に関与して欲しくない(平松元大阪市長に対する要請)」等々、突っ込みどころ満載である。
さて、内田さんの過去の言説を仔細に検討すると、考え方が粗雑で、論理的には相当支離滅裂だが、私は別にそんな事を今更ここで批判するつもりはない。直接教えられた神戸女学院大学の学生さん達は少し気の毒ではあっても、色々と変わった考え方をする学者さん達がいる事自体は健全な事だ。しかし、私が問題にしたいのは、受験者の文章解読力や論理力をチェックするべき国語の入試問題に、わざわざこの様な人の文章を取り上げた東大教授の見識についてである。
この文章の前半を読んだところでは、多くの人が「これは多くの左翼系言論人に対する批判なのだろう」と思ってしまうだろう。「(反知性主義者は)手持ちの合切袋から自説を基礎付けるデータやエビデンスをいくらでも取り出すことができる」「彼等はことの理非の判断を(相手に)委ねる気がない。『あなたが同意しようとしまいと、私の語ることの真理性はいささかも揺るがない』というのが反知性主義者の基本的なマナーである」と言われると、「ははあ、これはかつての左翼教条主義者達の事を言っているのだな」としか思えないからだ。
ところが、このすぐ後に、突然「知性は『集合的叡智』として働くのでなければ何の意味もない。単独で存在し得るようなものを私は知性とは呼ばない」という驚くべきドグマが、突然、何の脈略もなく展開される。あたかも「イデオロギーの無謬性」を講義する教室に突然迷い込んでしまったかの様だ。
筆者が重視する「集団の合意形成」はどうすればなされるのか、「示されたデータやエビデンスがもたらすとされている結論」に対してどの様に反論するのか、等々については一切の言及がないままに、突然「合意をもたらす力動的プロセスを知性と呼びたい」と言われても、少しでも知性のある読み手なら当惑するばかりだろう。
この入試問題を作った東大教授の見識を問う
時あたかも、米国では、共和党の大統領予備選で、乱暴な言葉を連発するトランプ氏が大衆の人気を集めて独走している。ホーフスタッターの著書の背景となった「アメリカにおける知識人と大衆との間の巨大な断絶」をここに見るような気がしているのは、決して私だけではないだろう。私には、彼こそが「日本の安倍首相などとは比較も出来ない程の反知性派の巨魁」に見えるのだが、「集団の合意をもたらす力動的プロセスを見事に駆動させている」彼は、内田さんにとっては、きっと理想的な「知性派の領袖」なのだろう。
この様な「強い困惑を与える不可解な文章」を敢えて入試の設問に取り上げた東大教授には、一体どの様な意図があったのだろうか? 彼等の想定する模範解答とは、一体どの様なものなのだろうか? 仮に私が受験生で、あまりの馬鹿々々しさの為に、漢字以外のところは敢えて設問には答えず、上記の様な問題点を指摘しただけの答案を提出したら、私は東大には入れないのだろうか?
私学の神戸女学院大学なら構わないが、国民の税金で運営され、一応日本で最高峰の「知性」が結集されていると見做されている東大で、この様な「反知性的」としか思えない文章が、白昼公然と入試問題に使われた事は、そう簡単に看過する訳にはいかない。
松本 徹三