電波利権という既得権にあぐらをかく放送法批判

井本 省吾

電波利権を独占しながら、自分たちの「言いたい放題」の自由は守りたい、という身勝手さ――。

少し古い話題だが、放送法に違反した場合は電波を止めることがありうる、という高市総務相の発言に対する批判についての感想である。

この問題については、池田信夫氏が3月1日のブログで「放送法に違反した局の免許を取り消すのは当然だ」と、抗議声明を出した田原総一朗氏ら有名タレント7人を適切に批判、それで決着がついていると思っている。

なのに、あえて取り上げるのは、国会で野党が騒いだり、マスコミやリベラル学界でいまだに高市批判が続いているからだ。

池田氏は「田原氏ら7人の抗議声明は法律論としてはナンセンス」であるとして、こう書いている。

放送法は第4条で放送局に次の要件を求めている。「公安及び善良な風俗を害しない」「政治的に公平」「事実をまげない」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにする」。このうち2の要件について、高市氏は国会で「放送局が政治的公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合、放送法4条違反を理由に、電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性がある」と答弁したが、これは常識的な法解釈である。

法があるかぎり、それに沿って違反した者が罰せられるのは当然なのだ。それが問題と言うのなら、田原氏らは放送法の改正を唱えるべきのである。池田氏はこう示唆している。

だから問題は彼女(高市総務相)の解釈ではなく、「表現の自由を制限する放送法の編集準則が憲法違反ではないか」という立法論なのだ。アメリカでは、FCCが1987年に「フェアネス・ドクトリン」を廃止し、放送局に政治的公平は要求されなくなった。300以上チャンネルがある多チャンネル化時代にはそぐわないからだ。

沢山の放送局ができて、各局が偏った政治的主張をしようが、自由勝手、放送法は消滅させるということにすれば良いではないか。というのである。

大手メディアの既得権=電波利権は総務省の裁量行政のもとで分配されている。多くの経済学者が指摘するように、電波行政は、総務省の裁量行政を排して周波数オークションで電波を開放することが正しい道だ。オークションで電波使用権を購入した参入業者がサービス開発とマーケティングを競いながら事業を創造すれば、多チャンネルの新しい市場が開けて経済は成長する。

視聴者は沢山の放送局の中から、自分の考えに近い放送局の放送を中心に視聴する。すると、電波利権を独占して既得権にあぐらをかいていたテレ朝やTBSのような極端な自民党批判や安保法制批判をしがちな既存の放送局は、ジリ貧に陥る危険が増大する。

その自由競争こそ、放送の内容を良くし、民主主義を鍛える。放送法などという政府の「裁量の余地」を残さない方がいいのだ、という考え方だ。

私も基本的にこれに賛成だ。田原氏らもその方がすっきりしてよいはずだ。

だが、田原氏らはここには踏み込まない。大手新聞社の多くが経営権を握っている民放の経営者はもっとだんまりを決め込む。電波利権を手放すデメリットは巨大だからだ。

総務省もそれを良くわかっている。自らも「電波社会主義による裁量行政」の巨大な権益のうまみを手放したくない。

総務省と民放は裏で手を握っているのだ。総務省は「ウチが仕切っている限り、放送法があるのは当たり前。だから、あまり一方的で偏った放送はするな」と言えば、民放は「わかっているけど、そんなにきつく締め付けないでよ。現場に自由にさせないと士気が下がるから」といったところだろう。

「既得権は欲しい、でも、やりたいようにやらせろ」というのが、彼らの放送法批判のキモなのだ。

そこに取材の甘さと特権意識による批判の緩さ、偏りができる原因がある。

電波利権という既得権を廃し、新規参入を容易にし、競争を激化させることこそ、優れた放送が生まれ、言論の厳しさに磨きをかける。