多数派か少数派かによって変わる“確からしさ”について

青木 勇気

twitterのタイムラインを追っていると、ある一つのテーマに関する議論のように見えて別の議論が混ざっていたり、ジャーナリストや専門家と言われる人々が「アイツは嘘つきだ」と叩かれているのをよく目にする。そのような状況においては、何が正しいのか、何を論ずるべきか、誰が言っていることが確からしいのかを判断することは非常に難しい。

twitterは拡散性が高いため、真偽や建設的な議論よりも、人口に膾炙した言い回しやキャッチーなタイトルの方が好まれ、結果的に情報が氾濫し玉石混淆とした状況を作り出してしまうのは周知の事実であるが、それだけではなく、少数派と多数派という「判断基準」を作り出してしまうリスクも孕んでいる。つまり、多数派であることや有名であることが“確からしさ”を決めてしまうということである。このことについて論じたい。


無名な人間の発言と有名な人間が言っていることの質、量が同程度だとしても、聞き手にとっては違うものとして受け入れられる

これ自体は、twitterに限ったことではない。たとえば体の具合が悪いときに言われる「友達の助言」と「医者の診断」のどちらが信頼に値するかといえば、議論するまでもなく後者となるだろう。だが、Webで行き交う情報に関しては「専門家・プロフェッショナルとそれ以外」というように分かりやすく、かつ簡単に選択することができないから、危険なのである。

仮に私のような無名な人間が、肩書きに「◯◯ジャーナリスト」などと入れそれらしいことを言っていれば、「なるほどね」「そうなんだ」と感じる人の人数が増え、ヘタをすると相当数のRTによりどんどん拡散してしまう。フォロワーが多い場合などは、「有名な、その道のジャーナリストが言っているのだから」と何の疑問も抱かれない可能性が高い。発言内容や記事の質や真偽のほどは問われなくなるということだ。そうなると、さらなるリスクが産まれる。

より多く読まれ、共有されているものが「多数派(場合によっては正しいもの)」となり、そうでないものが「少数派(正しいものへの反対意見)」となる

先日のエントリー「消費者と消費される側との間に横たわるもの」で「逆差別」について触れたが、著名人に賛同するときもまたしかりで、有名であることが説得力を高め、何を言っているかではなく、誰が言っているかがプラスに働くことがある。同じことを言っても有名か無名か(発言力があるか否か)によって確からしさが変動するということだ。専門家や学者は知識の裏付けがあるため、著名であることなどは無関係に簡単に論破する(もしくは意に介さない)かもしれないが、専門知識がなく出来事の背景などを知らない個人に判断が委ねられた場合、何を拠り所として情報をインプットすればいいだろうか。

たとえば、ある著名な作家が若手作家の書いた記事やコメントに対し、一部分を切り出して大いに批判したとする。当然、発言力のある作家の言葉のため、その批判内容は広がっていき、Bが悪い、Bは間違っているというのが「多数派の意見」になりやすい。もしかすると論点がズレているだけなのかもしれないのに、誤解の上に積み上げられた批判は“確からしさ”を高めていく。そうなると、一方的に批判を受けた側は、反論するにしてもマイナスからのスタートになってしまう。

こういう現象は本当によく見られるが、そうならないようにするには、まず個人個人が著名な作家を「A」、若手作家を「B」という記号に変えて読んでみればよいと思う。こんなことを言うと「そもそも構造として、著名人が言ったり書いたりするから注目されるし、説得力があるからこそ多くの人に読まれ、支持されるんだろうが。バカか?」などと叩かれるかもしれないが、そのような批判には何の意味もない。

私はあくまで確からしさについての話をしていて、それは先入観や予備知識、個人的な感情(元々作家の大ファンであるとか、twitterで胸くそ悪いことをつぶやいていたから嫌いといったこと)を抜きに量られるべきことだと述べているに過ぎない。あくまで、著名人の発言が無名の「A」によるものとして読まれても同じだけ支持されるだろうか、フラットに読まれるべきものが先に結論付けられてはいないか、このことを問いたいだけだ。そして、その問いに答えられないものは、決して確からしいとは言えないのである。

青木 勇気
@totti81