双日総合研究所・吉崎達彦氏のMSN産経ニュース1月5日付け記事「[正論]たくましいぞ日本経済の底力 驚異の環境適応力」が、新春に当たって単純な悲観論を戒めるものとして関心を呼んだようだ(この記事のリンクはすぐ切れるかもしれないが、記事自体は、吉崎氏の『溜池通信』の昨年12月2日号(PDFファイル)の要旨なので、こちらを参照されればよい)。その論点の1つは、貿易収支の黒字は確かに趨勢的には減少傾向にあるが、所得収支の黒字が堅調に続くと見込まれるので、そう簡単に日本の経常収支は赤字化しないというものである。
吉崎氏の議論は示唆に富んだものだが、そこでいう「所得収支」という概念自体は知られていても、その意味合いについては一般に十分理解されているとはいえないのではないかと思う。そこで以下では、所得収支に関連した簡単な解説を提供しておきたい。
いまでは、一国の経済活動水準を示す最も基本的な統計値としてはGDP(国内総生産)がもっぱら使用されている。しかし、以前はGNP(国民総生産)がむしろよく使われていた。このGDPとGNPの違いは、付加価値生産額を国内(D、Domestic)という地理的範囲で集計するか、国民(N、National)という人的範囲で集計するかの違いである。なお、現在ではGNPという呼称は公式には使われなくなっており、それに相当する概念はGNI(国民総所得)と呼ばれるようになっている。
上図の黒い楕円がGDPの大きさを示し、赤い楕円がGNIの大きさを示しているとしよう。地理的範囲で集計するか人的範囲で集計するかで、ずれが生じる。そのずれが、図のAとCの部分である。意味を考えると、Aは国内だけれども国民ではない部分で、Cは国民だけれども国内ではない部分だということになる。ここでの「国民」は国籍概念ではないので、むしろ普通は「居住者」という表現が使われる。以下でも、居住者(日本に長く住んでいる者、の意)という表現に切り替える。
すると、Aは国内で非居住者によって生み出された付加価値の大きさといえる。同様に、Cは国外(外国)で居住者によって生み出された付加価値の大きさといえる。GDP=A+B、GNI=B+Cであるから、
GNI=GDP+(C-A)
ということになる。この式の右辺第2項の(C-A)が、所得収支に相当する(注)。平たく言うと、「居住者が海外で生み出した付加価値」から「非居住者が国内で生み出した付加価値」を控除したものが、所得収支である。上記のように、所得収支をGDPに足すとGNIになる。
(注)GDP統計と国際収支統計は、相互の接続が容易になるように、できるだけ概念・定義をそろえるように努力されているが、完全に概念・定義が一致しているわけではないので、「相当する」という表現にした。ただし以下では、この種の細かな差異については無視する。
この所得収支の黒字額が、近年はGDPの2~3%を占めるようになっている。経済厚生を測ったり、所得移転に関連した話(例えば、公的年金制度の持続可能性など)をする際には、GDPよりもGNI(あるいは、一人あたりのGNI)を考える方が適切である可能性が高い。そうであれば、将来のGDPの動向のみならず、所得収支の動きにも注目する必要があるということになる。
なお、一般に付加価値は、利潤(営業余剰)と賃金(被用者所得)に分けられる。「居住者が海外で生み出した付加価値」も、同様に利潤(投資収益)と賃金からなる。国によっては、労働者が大量に国外に出稼ぎに行っているといったケースがあり、賃金部分が大きかったりするけれども、日本の場合にはそうしたケースではないので、大宗は利潤(投資収益)である。
日本企業が海外に生産拠点を移すという、いわゆる「空洞化」が進んでも、GDPは低下するとしても、上記のCの部分は増えることになるので、GNIは減るとは限らない。国内雇用が失われて、その分が海外での雇用に振り替わるという完全な代替が生じれば、相当する分の被用者所得は減ることになるが、海外展開の拡大に伴って補完的に国内雇用も生じるといった効果が働けば、GNIは減らない可能性がある。
また、空洞化といわれる事態の反面として日本の投資収益の内訳は、欧米への証券投資の収益の比重が低下する一方で、アジア向けの直接投資の収益の比重が上がる形に変わってきている。欧米への証券投資よりもアジア向けの直接投資の方が(少なくとも中長期的にみると)収益率が高いと見込まれるので、しばらくは所得収支の黒字基調は変わらないと判断される1つの根拠になっている。
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池尾 和人@kazikeo