今週のNature誌のニュースに「Most US professors are trained at same few elite universities」(米国の大学教授の大半は限られたエリート大学の出身だ)という記事がでていた。
「米国の大学における終身制身分職員の80%は、学位制度のある大学のうちの20%の大学の出身者である」と紹介されていた。ここでは採用の際に出身大学によるバイアス(というと柔らかい感じがするが、差別といっていいと思う)があるのではとの疑念が書かれていた。
私もシカゴ大学在職時には、レジデントやフェロー採用時の面接をしていた。3000人が応募し、300人が面接に回り、そのうち10%が採用される(応募者のうち1%が採用される)厳しい門が待ち構えていた。もちろん、複数の病院に応募できるので、ほとんどの医学部卒業者は、どこかで研修を開始することができる。
応募から面接に回るプロセスはよくわからないが、面接に回ってくる学生や研修医はほぼ優秀な人たちばかりで、甲乙つけがたかった。彼ら・彼女らは優秀な医師になるだろうが、患者にとっていい医師になるかどうかはわからない。豊富な知識と判断力に長けだけでは、いい医師とは言えない。患者さんを思いやる心がなければ、近いうちにAIに任せてもいいと思う。
そして、大学の教官の25%は、両親のいずれかが博士号を持っているとのことだ(米国全体での博士号取得者は1%未満)。博士号を持つ人たちは、一般的に経済的にも恵まれているので、教育にお金をかけることができる。
当然、授業料の高い学校へ通わせることもできる。経済力が教育環境と関連すれば、社会の経済力格差は広がる一方となる。これは米国だけでなく、日本でも進学校からハイクラス大学に入り、その人たちが経済界、官界を牛耳っているのだから、同じようなものだ。
私が小さかったころ、東京にも大阪にも、公立中高校からの旧帝国大学進学者は多かった。東京には麹町中学―日比谷高校―東京大学ルートがあったし、大阪には北野高校・天王寺高校―京都大学・大阪大学という進学ルートがあった。学区はあったが、他県から府立進学校に通う学生はたくさんいた。今の時代には合わないかもしれないが、大らかでいい時代だったと思う。
私の高校の同級生480人のうち半数は、東京大学・京都大学・大阪大学に進学していた。府立天王寺高校へは市立文の里中学から100人程度(高校480人中)進学していた。想像できないかもしれないが、私が中学に入学した時には3学年で3500人を超えていた。
高校生の時には塾にも通っていなかったが、高校の授業だけで十分進学できるだけの学力は身についた。そして、私の大阪大学医学部の授業料は年間1万2千円で、卒業までの6年間で7万2千円だ。もちろん、全国の国立大学は同じ授業料だ。当然ながら、教科書代の方がはるかに高かった。家庭の経済力に関わらず、本人が努力すれば、自分の望む教育・進学を考えることが可能な時代だった。
変な平等主義が、教育格差を拡大し、「頑張れば、努力すれば夢が叶う世界」を壊してしまった。少なくとも高校までは、経済的な不安なく、授業料の心配をしなくとも自分の道を歩んでいくことのできる社会にして欲しいものだ。どの国にも国の将来を担うエリートが必要だと思う。自分の出世や保身だけに走らないのが真のエリートだが、最近は自分のことだけしか考えないニセエリートが国を危うくしている。
経済力に関係なく、誰でもが平等なチャンスを与えられ、見識があり、志の高いエリートを生み出す社会であってほしいと願っている。公平・公正で広い視野に立ち、国を背負うことのできる真のエリートを育てることが今の日本には必要だ。
追記:コロナ感染症でいずれかの親や世話をしてくれる人を失った子供が世界中で1000万人以上いるそうだ。そのうち、東南アジアで400万人、アフリカで200万人だ。日本が世界に貢献できることがたくさんあるはずだ。日本人は「貧すれば鈍する」国民ではないはずだ。「貧しても鈍しない」国であって欲しい。
編集部より:この記事は、医学者、中村祐輔氏のブログ「中村祐輔のこれでいいのか日本の医療」2022年9月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。