旧宮家11家についての恣意的な議論を排除すべき

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皇位継承問題にいて旧宮家(旧皇族)が話題になっているが、それについての正しい知識をもってもらいたいということで、新刊『系図でたどる日本の皇族』(宝島社)で詳しくきちんと論じている。今後の議論の土台にしていただければ幸いである。

過去に幾度となく皇統断絶の危機を迎えた日本の皇室は、安定的な皇位継承のために、宮家と呼ばれる皇統の補充組織を設けた。こうした宮家のうち昭和22年(1947年)に11家が地位を剥奪され大正天皇の子孫のみが宮家として残された。だが、大正天皇の男系子孫が絶える可能性があるいま、前例にしたがって、これら旧宮家が注目されるのは自然なことだ。

「臣籍降下」とは、皇族がその身分を離れ、姓を与えられて臣下の籍に降りること。日本国憲法下では皇籍の喪失を「降下」と表すのは不適切とされ、「皇籍離脱」が用いられた。

古代の律令では、天皇から直系4世までは王あるいは女王と呼ばれ、5世王は皇親(皇族)とはならないものの、王号を許された。そのため、天皇から遠縁になった者は順次臣籍となった。

しかし、平安時代になると皇室に多くの皇子が生まれ、4世以内の皇族が大量に発生した。朝廷の財政を圧迫する一因にもなったので、もっと早い臣籍降下が積極的に行われた。『光る君へ』に登場する道長の第二夫人源明子の父・源高明など醍醐天皇の子が1世で臣籍降下したりもした。

院政期以降、傍系の皇子は出家して法親王となった。一方で、皇位継承または直系の血統が絶えたときの備えとしていくつかの世襲宮家を創設するようになり、江戸時代には伏見宮、桂宮、有栖川宮となって、断絶すると新しくその時々の親王がそれを継いだ。

これを新井白石は徳川御三家のようなものと理解していたが、三宮家だけでは不安定だというので、新たに東山天皇の子孫たる閑院宮家を創設し、四宮家とした。

細かい性格はともかくとして、この四つの宮家が、皇位継承者確保のためのものだと認識されていたことは間違いないのであって、それを現皇室から遠いと行って恣意的に排除するのは間違いだ。

しかし、明治になると門跡(皇族などが出家して居住した特定の寺院の住職)などになっていた法親王が還俗し、新たな宮家を創設した。宮家は養子をとれないので、断絶する宮家もあった。ただし、未亡人や未婚の娘がいる限りは、家として残った。宮家として残れなかった王は、侯爵ないし伯爵として授爵された。

皇族が政治的に活躍する場面も増え宮家の数は増えたし、戊辰戦争からは軍人として活躍することになり、その意味でも増員が必要にった。

同世代で10人程度の男子皇族がいることが皇室の安定した継承と財政的な負担のバランスを考えれば適切なわけで、ルールはその数字を実現するための後付けの理屈だ。医学の進歩で子供が死ぬことも少なくなる一方、多くの側室を抱えるというのも流行らなくなるという変化もあった。

そこで、戦前の皇室典範では、4世まで、つまり、玄孫まで、伏見宮家については、天皇でなく邦家親王から数えるということになった。そして、次男以下は華族として授爵することになった。

この原則を具体的に当てはめると、現在のご当主が資格のある人もない人もいるといったところであるが、数が足りなくなったら規則は変えられたはずであって、戦前の制度で臣籍降下が予定されていた世代は排除されるべきだというのは、現在の有資格者がいなくなったら皇室というものは、廃止する時限制度だという暴論と等しい。

継体天皇の継承を見てもわかるとおり、皇室は近い男系で続かなかったら遠縁の男系から求めることで継承してきたし、それは、古今東西多くの国でとられている常識的な制度だ。

戦後になって、皇室も財政的な打撃を受け、規模を縮小すべきだと言うことになって、大正天皇の子孫の宮家だけを残し、11の伏見宮系宮家(伏見宮・山階宮・賀陽宮・久邇宮・梨本宮・朝香宮・東久邇宮・北白川宮・竹田宮・閑院宮・東伏見宮を臣籍降下させる決定が下された。

昭和22年(1947年)10月の皇室会議での議決を経て、11宮家51人が皇籍を離脱した。

この決定に至る経緯について、誰が先に言い出したとか、こだわったのかという議論があって、とくに、保守系の人々はGHQの圧力という。

しかし、この時期のあらゆる決定と同じように、天皇制や昭和天皇本人の処遇すらどうなるか分からない中で、GHQの意向を忖度したり、先回りしたりして行動していたのであって、誰が先に言い出したかはさほど重要ではない。

華族制度も、昭和天皇は旧公家は守りたいと考えたし、一代限りはそのままという案もあった。それに対して、GHQが全般的に縮小を指向したのも間違いないし、維持したとしても経済的特権の維持は難しく、旧皇族でも拘泥しない人もいた。

ただ、昭和天皇は皇族親睦会に代わる菊栄親睦会の組織を指示し、皇籍離脱に際し、昭和天皇は「身を慎み、貴賓ある御生活をしていただきたい。できるだけの御補助は致すつもりである」などとし、引き続き皇室の藩屏としようとしたのは間違いない。

この廃止された11宮家は、いずれも幕末の伏見宮邦家親王の子孫である。伏見宮家は、北朝第3代崇光天皇の子・栄仁親王によって創設された。その後、男系で断絶することなく継続していたのである。

ほかの宮家に比べると現皇室から縁遠いが、それは、運が良かったと言うだけのことだ。ただし、女系では現皇室との縁組みを繰り返し、北白川、朝香、竹田、東久邇は明治天皇の、東久邇はそれに加えて昭和天皇の長女の子孫であるから、正統性は高い。

古来、男系男子は必要条件だが、女系での近さは人選の重要な要素として重要視されてきたからである。

新刊では、各宮家について詳細を紹介している。