創価学会の月刊紙『創価新報』の9月号で、同学会青年部長の西方光雄さんと対談しました。なんと(?)前後編で、来月にも続きが載る予定です。
紙の現物の入手は少し難しいかもですが、「逆F」で知りあいの創価学会の方に頼んでみるとか。また、聖教新聞Webの会員記事にもなっています。
それで、同紙ではこんな話をしているのですが、
私が懸念するのは、周囲と対話すらできないほど個人化が加速した結果として、人々の意識が「いま・ここ」に集中してしまっている点です。秒単位のショート動画を見て、それだけで投票先を決めてしまうのは、その典型といえます。
(中 略)
冷戦下では近代化論や共産主義などのイデオロギーや、ナショナリズムが、人々に時間軸を伴ったビジョンを提供しましたが、今やその機能を果たせなくなっている。近代に宗教が衰弱して、世俗的な歴史観が代わりを務めたはずなのに、いつしか私たちは再び、宗教なしで歴史の感覚を得ることが難しい時代を生きているかのようです。
強調は今回付与
実はこのテーマを意識したのは、2018年の夏、建築雑誌『GA JAPAN』の「建築史特集」での取材でした。いまは単著に再録していますので、そちらから該当箇所を引くと――
よく知られた話ですが、新渡戸〔稲造〕の Bushido: The Soul of Japan(武士道)は外国人に向けて書かれたもので(一九〇〇年に米国で刊行)、「キリスト教の宗教心がない日本人は、どのように道徳を維持するのか」と聞かれて、強いて武士道を挙げたら妙にウケてしまった。
(中 略)
世の東西を問わず、歴史には世俗化した宗教道徳という側面があるように感じます。
欧米諸国の人たちは今でも概ねキリスト教を信じていますが、昔ほどではない。新渡戸に質問した欧米人だって、近代化にともなう世俗化の最中だったはず。その時に、「後世から見て、正しい判断をしたと言われたい」という歴史感覚が、モラルを維持する源泉になるわけですよね。有名な例は、ヒトラーとの妥協を拒んだチャーチルでしょうか。
幕末維新の動乱を経た時代に新渡戸が見た武士道も、その一類型にすぎません。だから新渡戸が「宗教がない時代こそ、歴史観がモラルの源泉になる。あなたのお国と同じですよ」と答えていれば、武士道なるミステリアスな誤解は生まれなかったでしょうね。
『歴史がおわるまえに』亜紀書房
362-3頁
そうなのです。「いま」だけを見るなら、他人を殴って持ち物を奪うことが、利益を最大にするかもしれない。炎上の最中には勝ち馬に乗り、風向きが変わったら自分も手のひらを返すのが、最適な戦略かもしれない。
モラルを持つというのは、時間の幅のなかで考えられるようになることと同義で、だから前近代に道徳の基盤とされた宗教は一般に、なんらかの「救済史観」を備えていることが多い。
近代の色んな歴史観とは、そのゴールの内容を世俗化したものだったわけです。「民族の栄光の復活」とか、「共産制社会の実現」とか。最近までブームが続いたのは、「全世界を自由民主主義の国にする」とかですよね。
今日の問題は、そうした「救済史観のバージョン違い」がことごとく失墜して、人気がなくなり、①相互に排他的なガチンコ宗教に先祖返りするのか、②無目的・無方向な「いまさえウケれば」で生きていくのか。原理主義か大衆消費社会かの、悪い二択に陥ってしまったことでしょう。
ロシア正教の召命意識に憑かれているともされる、プーチンが爆走するのはもちろん①の路線で。それを止めなくてはいけないのですが、しかし対抗せよと煽る側がその実、②の「いまだけバズれば」しか考えていないようでは、まぁ勝敗は見えたよねと冷笑されるのも致し方なく。
そうした時代に適切な時間の感覚=歴史意識を取り戻すことが、果たしてできるのか。信仰がある人の場合は「ウチの教えに沿っていきます」になるとしても、それ以外――つまり日本人の大多数はどうなるのか?
そんな課題を議論することで、信仰の有無をも架橋する対話になっていればと思います! 多くの方の目に触れますなら幸いです。
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年9月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。