アメリカの大統領選挙でトランプ大統領が選出された。ウクライナのゼレンスキー大統領は、ロシア・ウクライナ戦争の停戦調停に意欲を示すトランプ氏を説得するための発言を繰り返している。
だが、トランプ氏当選の確率が非常に高いことはかなり前から予測されていたことである。心の準備がなかったはずはない。結果が確定した今は、その現実をきちんと見据えることが必要だ。
このままでは、いずれゼレンスキー大統領は、今後はウクライナで起こる悪いことの責任は全てトランプ氏にある(俺には何も責任はない)、といったことを言い出すのではないか、と私は懸念している。
私は以前から繰り返し、最後はアメリカとウクライナの関係の破綻で戦争が終わるとすれば、それは戦後の安全保証体制の確立にも悪影響を及ぼす最悪の事態だ、と述べてきた。
戦場では、2022年3月以降では最速のスピードでロシア軍が支配地を拡大させている。トランプ氏就任の日までをにらんでも、まだ2カ月もレイムダック・バイデン政権期が続く。ロシアは、当然、これからの2カ月の間に、大攻勢をかけてくるだろう。
ウクライナ支援者の多くのは、アメリカの支援が足りないからウクライナが苦戦している、と主張している。しかし空前の巨額の援助を提供しているアメリカをつかまえて、「お前の支援が足りないから俺は苦労している、全てはお前の支援の不足のせいでこうなった」と主張するのは、どう考えても責任ある政治家の態度とは思えない。
私に言わせれば、現在のウクライナ軍の苦境は、そしてこれからの2カ月のさらなる苦境は、合理性を欠いた8月のクルスク侵攻作戦の結果としてもたらされた性格が強い。ゼレンスキー大統領は、その現実も見据えなければならない。
この機会に、いかにアメリカの大統領選挙の日程が、ロシア・ウクライナ戦争に大きな影響を及ぼしていたかを、振り返ってみよう。
ロシアの全面侵攻が開始された2022年2月24日は、まだバイデン大統領が就任して一年の時期だった。前年8月の無残なアフガニスタンからの完全撤退の痛手を抱えていたバイデン政権が、外交政策で失点を取り返す大きな機会として、ウクライナ大規模支援に踏みこんだ。ウクライナ及びバイデン政権の双方に合理性があった時期だ。
キーウ包囲戦を仕掛けてきたロシア軍を撃退し、急速に拡大させたロシアの支配地を削り取る作戦を行った2022年後半までのザルジニー総司令官を擁したウクライナ軍の動きは、見事であった。そもそも19万の軍隊でウクライナ全土を占領することは、ロシア軍にとっても不可能であった。
しかし、私自身は2022年から様々な媒体で繰り返し繰り返し述べてきたように、ロシアがウクライナを完全併合するのは難しく、しかしウクライナがロシアに軍事的完全勝利するのも難しい。どちら一方の完全達成で終わる結末は想像できない。両者がせめぎあう何らかの状態で、戦争は終わりになるしかない。
そこでウクライナ軍は2023年夏前からいわゆる「反転攻勢」をかけた。この「反転攻勢」は成果を上げることができなかったと結論付けられているが、上記の見方にそって言えば、ウクライナ軍は、2023年の段階で押し込める極限点までロシア軍を押し込んだ。その極限点を見極めるための作戦であったと言ってよい。
これによって、戦局は、「膠着状態」に入った。私が初期段階から語っていた、W・ザートマンの紛争調停タイミングの「成熟理論」にそった「相互損壊膠着(MHS)」と言える状態だ。
今の時点で思い出しておくべきは、2023年の「反転攻勢」の開始時期だ。すでに冬を一度越えて、ロシア軍は支配地を防衛するための準備を進めていた。そうなると2022年のようなウクライナ側の劇的な進軍は難しい。ウクライナ軍がロシア軍を圧倒できる戦力を蓄えるまで平穏な戦局を維持しておく戦略もありえただろう。しかし、その選択肢は採用できなかった。理由は、アメリカの大統領選挙だ。
2023年の段階で、バイデン氏とトランプ氏の一騎打ちが再現されることが予測され、しかもバイデン氏の不人気のため、トランプ氏の優位が予測されていた。
ウクライナにとっては、強力な支援を約束し続けていたバイデン氏の再選が望ましい。それを後押しするためには、アメリカで大統領選挙の予備選挙が始まる前の2023年末までには、巨額のアメリカの軍事支援の目に見えた成果を見せる必要があった。
もし巨額の支援を提供しても、ウクライナ軍が成果を出せないのであれば、支援は打ち切られ、しかも支援に消極的なトランプ氏の再選の可能性が高まる。時期尚早であっても、バイデン氏を助けるために、「反転攻勢」を開始して「アメリカの支援の劇的な成果」を見せる必要があった。
この観点から見て、私は、2023年「反転攻勢」には合理性があったと考えている。ロシア軍をさらに押し込んだ結果も、現実の諸条件を見れば、失敗だったとまでは言えないとは考えている。他方、バイデン氏再選のために「アメリカの支援の劇的な成果」を見せるという政治的効果は、限定的なものでしかなかった。
そのため、大統領選挙戦でトランプ氏優位が続いただけではない。議会までがウクライナ支援に消極的になり、予算が可決されないという事態まで引き起こされた。これが、ロシア・ウクライナ戦争の一つの峠であった。
2024年になる頃には、トランプ氏は、自分が大統領になったらロシア・ウクライナ戦争を止める、と公言し始めた。戦局の膠着状態と物価高で苦しむアメリカ国民の疲弊を見れば、選挙戦術としても、トランプ氏の態度には合理性があった。
再びW・ザートマンの「成熟」理論に立ち戻れば、2024年前半は停戦に非常に機が熟し始めていた時期であった。私自身も、そのような趣旨の文章をいくつか書いた。私について言えば、この時期は、結果として「篠田は隠れ親露派だ」と非難され始めた時期だ。
しかしこの停戦機運の高まりに最も激しく抵抗したのは、ウクライナのゼレンスキー大統領であった。まずザルジニー総司令官を罷免して、自分の意向で全軍を動かせる体制を作り、8月にはロシア領クルスクに侵攻するという合理性を欠いた作戦を実行し始めた。一言で言えば、たとえウクライナが不利になる結果しかもたらされないとしても、ただ停戦の機運が熟することにだけは抵抗する、という態度であった。
ウクライナが持ちうるせめてもの期待は、短期でもいいので、かすかな成果を、アメリカの大統領選挙前に作り上げて、せめてほんの少しでも望ましい方向に大統領選挙戦を進めさせる影響を与えたい、ということだっただろう。しかしクルスク作戦の効果は、極めて短期的な電撃的瞬間の間だけしか続かず、軍事的・政治的な意味は乏しかった。
ゼレンスキー大統領の思い付きで、ロシアの国境の小さな町スジャに立てこもって謎のスジャ防衛戦で多大な犠牲を払っているウクライナ軍に対する責任は、いったい誰がとるのか、という問いは、今や政治的な事情でタブーになっている。もしウクライナ国内で、そんな問いを発したら、身辺の危険を心配しなければならないだろう。クルスクの話題は、ゼレンスキー大統領のSNSに登場することもなくなった。
そして、トランプ大統領が当選した。
すでに二年半にわたって、ロシア・ウクライナ戦争は、ウクライナの最大の支援国であり生命線であるアメリカの大統領選挙の予定に翻弄されて、動いてきた。
だが今や、結果は出た。確定した結果の現実をふまえて、次の政策を明らかにして、進めていかなければならない時期になった。ウクライナ政府だけの話ではない。日本政府も同じだ。
峠を越えた後の過去半年余りのウクライナの行動は、負の遺産となって戦場に影響が及ぶ。それをどう処理していくか、も真剣に考えなければならない。具体的には、一人でも多くの兵士を生存させるためのクルスクからの撤退だ。そして東部戦線でのロシア軍の進撃を止めることだ。
残念ながら、非常に困難な課題になってしまっている。しかしトランプ氏は突然に豹変したりしないだろうか、といった夢物語をSNSで発信しているだけでは、現実はただ悪化していく一方だ。
もし現実を直視することを拒絶し、あああとせめて2カ月だけでもいいので現実から乖離した夢を見させてくれ、といった無責任な態度を取り続けるのであれば、そのことがもたらす災厄は、さらにいっそう甚大になる恐れがある。
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