予算がなく生前退位出来なかった戦国時代の天皇

八幡 和郎

天皇陛下の生前退位で忘れられているのが財政負担の大きさだ。即位礼を始めとする儀式に関する費用はどうせ必要だから時期の問題だけだが、もっとも難問なのは、新旧天皇がどこに住まれるかだ。

昭和天皇は吹上御所に住まれ,崩御ののちは香淳皇太后がそのまま住まれていたが、現在は使用されていない。今上陛下は、践祚後もしばらく赤坂御用地の旧東宮御所からら通われていたが、平成5年(1993年)に現御所が新築されて引っ越された。

過去の例からすれば、江戸時代の天皇は譲位後には御所を出られて仙洞御所に住まれた。最後に譲位されたのは,明治天皇の曾祖父にあたる光格天皇で、そのとき住まれていた御所のあとが大火で焼けたあと、庭園のみになっているのが現在の仙洞御所で、大宮御所と隣接してる。

はたして、今上陛下が生前退位されたら、どうするのか、思案のしどころである。現御所を明け渡されて吹上御所に移られるか、逆に新陛下が吹上御所に入られるか。また、秋篠宮殿下が東宮御所にうつられるのかどうか。あるいは、今上陛下が赤坂御用地のどこかの御所に移られる選択肢もあるし、京都大宮御所とか御用邸に移られる選択肢もある。

私としては、ぜひ、京都の仙洞御所を再建してお住まい頂くのがいちばん嬉しいが。

いずれにしろ、生前退位の問題を論じるのに、経済的な側面が語られないのは、歴史家としては、いささか不思議な気がする。なぜなら、歴代の天皇は早く譲位したいと考えられるのが普通で、ネックになったのは、だいたい、費用の問題だったからだ。

とくに、応仁の乱のときの後土御門天皇、そのあと、後柏原天皇、後奈良天皇は生前退位したくてもできず、3年ずつくらい帝位におられた。そして、正親町天皇も同じだった。

本能寺の変がなければ譲位と安土への行幸が実現していた

本能寺の変をめぐる黒幕説のなかで、もっとも人気があるのは正親町天皇とか近衛前久ら朝廷関係者との確執に原因を求めるものだ。

その根拠としてよく引き合いに出されるのが、安土城に天皇を移そうとしていたのでないかということと、前年に大軍を率いて御所で馬揃えをしたこと、正親町天皇の譲位が検討されていたこと、朝廷からのさまざまな官位官職授与の申し出をことわっていたことなどである。

しかし、こんなことは、本能寺の変の黒幕として朝廷が動いたと推察する理由にはまったくならない。まず、信長が天皇たちを安土に行幸していただこうとしたことはありそうな話である。そもそも、日本では主君を家臣がお迎えすることはこのうえない名誉だった。江戸時代でも将軍のお成りとなるとその藩は年収の10パーセントを超えるような支出をした。なにしろ、諸大名も同行するからである。

天皇については、足利義満が北山殿に後小松天皇の行幸を迎えたのはよく知られているし、のちには、豊臣秀吉が聚楽第に後陽成天皇を、德川秀忠が後水尾天皇を二条城に迎えたのだから、信長が天皇を自邸に迎えようとしても不思議でないし、京都に屋敷を構えなかった信長が行幸を得るとすれば安土城ということになろう。

安土城に清涼殿に似た建築があったとすれば、行幸を迎えるためであって、安土遷都に備えたわけではないし、いずれにせよ、天皇への敬意が欠けていたなどということにつながらない。

生前退位は常に天皇の希望である。儀式から解放され、気楽に遊興しつつ、実質的な権力は保持したかったのである。なにしろ、在位中は禁裏の外にも出られなかった。さきほどの馬揃えに際して禁裏の南側に出るだけでも、毛氈の中を「行宮」と位置づけねばならなかったのである。

即位に伴う儀式をしたり、上皇のための御所を創る費用がなく何十年も在位されてそのまま崩御されたが、以降、譲位と院政を復活することは歴代天皇の念願だった。

戦国時代には即位に伴う儀式をしたり、上皇のための御所を創る費用がなかったから譲位できなかったのである。

いずれにせよ、信長は譲位を実現して新旧両帝を安土へ行幸して頂くつもりだった思う。しかし、本能寺の変で実現しなかった。

しかも、後継候補の誠仁親王が父帝に先立ち亡くなったので,遅れたが、豊臣秀吉が費用を出してくれたので、正親町天皇から孫の後陽成天皇への譲位がなされ、また、聚楽第への上皇と天皇の行幸も実現したということだ。