
Wikipediaより
産経新聞に掲載された櫻井よし子氏の「異形の中国を世界へ発信し、従来以上に戦略を持て」という記事を読んで複雑な気持ちになったのは私だけではあるまい。
中国が国際秩序を構造的に揺さぶる存在である以上、日本が主体的に「中国分析」を世界へ提供することが重要になることは当然で、櫻井氏がこの問題をタイムリーに取り上げたことは多としたい。
論壇デビュー当時の櫻井氏は、他の大多数の日本の論者とは異なり、英語にも堪能で諸外国の一次情報を豊富にこなした国際標準の分析を展開していたが、今回の櫻井氏のコラムは標題と中身が違う「羊頭狗肉」的な記事だと分かり落胆してしまった。
まず、今回の議論の出発点は Wall Street Journal(WSJ)の「Trump, After Call with China’s Xi, Told Tokyo to Lower the Volume on Taiwan」というコラムで、このコラムには、三方向の一次情報──米国政府関係者、複数の日本政府関係者、中国側公式リードアウト──が登場する。
WSJが報じた事実関係の要点は以下の三点であった。
- 習近平は高市発言に強い不快感を示し、電話の半分を台湾に費やしたこと。
- トランプは同日、高市首相に「台湾問題で北京を刺激しないよう」助言した。
- この助言は「日本側複数の関係者」も認めている。
これが一次資料である。
一方、櫻井氏のコラムはWSJ報道を否定し、「挑発を牽制する発言はなかった」「政府高官の情報も全く異なる」と主張しているが、その根拠は日本政府スポークスマンの否定コメントただ一つである。
そのコメントとは、「トランプ大統領が高市首相にアドバイスしたというのは正確とは言えない」という当事国の曖昧否定であり、ニュース価値が極めて低いため、AP・Reuters・FT・NYTのいずれも日本の否定を報じなかった。
櫻井氏は、かつて自分自身が最も強く批判していた報道姿勢──「政府否定を鵜呑みにすることは報道の腐敗である」──の世界に、いつ頃から転落してしまったのだろうか。
以前の櫻井氏は、
- 政府否定を疑う姿勢:外務省発表を疑い、複数ソースを照合することを重視していた。今回の態度とは真逆である。
- 英語一次資料の読解:WSJ・NYT・外交専門誌を読み込み、国内に翻訳して紹介していた櫻井氏は、この記事のような「国内向け物語文体」とは全く異なっていた。
- 彼女の初期論考には「異形」「怒り」「守護者」といった情緒語はほぼなく、今よりはるかに鋭角的分析が冴えわたり、当時から国際的に通用しない論議の多かった日本の評論家としては、まさに「掃き溜めの鶴」のような存在であった。
櫻井氏のコラムには三つの致命的欠陥があると思う。
- 日本政府の否定(not accurate)を唯一の根拠に採用:一次資料(WSJの三方向証言)を完全に無視し、政府否定だけを採用している。これでは国際報道では通用しない。
- 情緒語の濫用:「異形」「怒り」「守護者」──これでは国際論壇には届かない。国内ファン向けの文章である。
- 国際報道基準の欠落:WSJの構造的分析を読み飛ばし、国内政治的「安心物語」を優先している。
ではなぜ櫻井氏は変質したのか。私の答えは、評論家が辿りやすい“職業的変質”、すなわち「朱に交われば赤くなる」という格言の犠牲者ではなかろうか。
私が考える悪環境には、
- テレビ露出の増加:複雑な構造分析より「強い言葉」「情緒的敵役」が求められる。評論家が劣化する典型的なルート。
- 党派性の固定化:“保守陣営の象徴的存在”として位置づけられ、分析より政治的役割期待を優先するようになった。
- 国内政治への役割偏重:「国際分析」から「国内支持層向け語り」へと軸が移った。今回の高市擁護はその典型である。
そして国際的言論の舞台で通じる数少ない評論家としての櫻井氏の変質は、日本外交の幼児化も招いてしまった。
具体的にいうなら、
- その風潮に乗せられた高市首相は存立危機事態という重い概念を「国内政治の勇ましさ」に使う稚拙な道を選んでしまったのである。高市首相は、死傷者発生の可能性と結びつく集団的自衛権(米軍作戦との法的連動)の発動を「政治的気迫」のように扱ってしまったが、これは厳しい競争下にある国際社会では通用しない幼稚さである。
- 日本では話題にもならないが、国際報道を読む際に重要なのは、習近平 → Trump → 高市 の電話順が示す力学で、日本の「勇ましい発言」が米中の大局では周縁的扱いであることを示していることにも触れるべきであった。
- アメリカ第一主義のトランプが農産物取引を優先している現実を知るべきだ。トランプが習近平との電話で費やした時間を見れば、トランプは明確に台湾より農産物交渉やデタント維持を優先していることは明白で、高市発言は米国にとって“余計なノイズ”でしかない。
- 霞が関外交の「国内勇ましさと国際沈黙」の二重構造を分析してみると、日本外交には国内向けの勇ましい物語と、国際舞台での沈黙と忖度という構造があることが見えてくる。高市首相はその典型的な犠牲者となった。
櫻井氏の変質は、日本外交の未熟さを照らす鏡であり、一次資料を軽視し、国内向け物語に依存する論法では、国際舞台で日本の信用は得られない。
「異形の中国」を世界へ発信する前に、日本自身の「分析基準の未成熟」こそ正さねばならない。
かつて国際論壇に名を残した櫻井氏が、いまや政府否定のみを根拠にWSJを切り捨てる側に回った。この事実は、日本の保守論壇だけでなく、日本の国際的信用にとっても小さくない警鐘である。「スローガンはあっても政策のないのが右翼」「政策をスローガンで伝えるのが保守」だと私は考えているが、日本ではこの区別すら曖昧で、議論の質を一段と劣化させている。
保守言論が再生するために必要なのは、「交わる相手を選ぶ」という当たり前の自戒である。日本の報道社会の一部が作り上げる「国内向けの勇ましい物語」に寄りかかってしまえば、どれほど優れた論者でも、構造分析から情緒語へと堕落していく。
いま求められているのは、かつて国際論壇で輝いた櫻井よし子氏が再び「一次資料を手に世界標準で語る保守」の姿に戻ることである。
日本外交の幼児化が進む中、その回復は彼女自身にとっても、日本の保守にとっても、そして日本の国際的信用にとっても、決して小さくない意味を持つはずだ。
北村隆司 (ニューヨーク在住)






