病院という聖域:面会制限が守るものは、命か、それとも特権か --- 九条 丈二

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「親の死に目に会えない」——。かつてこの国で、これほどまでの「親不孝」が、これほどまで「安価に」正当化されたことがあっただろうか。

日本人の伝統的な死生観において、最期の瞬間を共にし、看取ることは、遺される者が故人の魂を鎮め、自らの人生に区切りをつけるための最も神聖な儀礼であったはずだ。しかし、この数年の「コロナ騒動」は、その数千年の積み重ねを「感染対策」という免罪符一枚でいとも簡単に粉砕した。

今なお続く一律的な面会制限。病院という巨大な「結界」の外側で、多くの家族が最愛の人の最期に立ち会えず、孤独な死を強要されている。SNS上では一部の当事者が悲痛な声を上げ、この異常事態に疑問を呈しているが、その声は大きなうねりにはならない。驚くべきことに、多くの国民はこの非人道的な制限を「仕方がないこと」として、静かに、そして従順に受け入れているのだ。

この従順さの背後にあるのは、科学的なエビデンスへの信頼ではない。それは、病院を「穢れ(けがれ)」を排除する聖域と見なし、医療従事者を絶対的な支配者として仰ぐ、日本人の深層心理に根ざした「呪術的な服従」である。

コロナ騒動の初期、我々が目撃したのは、医療従事者そのものを「不浄」と見なす凄惨な差別であった。しかし、騒動が鎮まるにつれてこの心理構造は変質し、医療従事者への差別は消え、代わりに病院という空間が「絶対的な清浄域」として神格化されたのである。

その象徴が、現在も続く「一律の面会制限」や「マスクの強要」だ。医療従事者自身はすでに世俗の日常に戻り、外部と接触を繰り返している。科学的に考えれば、彼らがウイルスを持ち込むリスクと、家族が持ち込むリスクに決定的な差はない。にもかかわらず、家族だけが「潜在的な汚染源」として排除され続けるのは、病院側が感染対策という言葉を、聖域の純潔を守るための「お祓い」として利用しているからに他ならない。

我々は、この閉鎖空間がもたらす実務的な弊害にも目を向けるべきだ。家族の目が遮断されることで、医療・介護の質を監視する機能は失われた。面会制限が「家族の不満をシャットアウトする道具」として機能し、医療事故や不祥事を覆い隠す免罪符となっていないか。事実、老人の場合は面会制限によって認知症が劇的に進行するケースが散見されるが、病院側がその責任を取ることはない。

この無批判な服従を強いる空気の源流は、歴史的背景にも求められる。かつて医師が苗字帯刀を許された特権階級であったように、現代においても医療は「お上の差配」として機能しているのではないか。「施設管理権」や「公衆衛生」という近代的な用語は、今や反対意見を封殺するための、新たな権力行使の道具へと成り下がっている。

我々は今こそ、医療従事者という「現代の武士階級」への無批判な追従を脱却しなければならない。そもそも、公衆衛生の定義とは「身体がウイルスに侵されないこと」だけではない。心身ともに、そして社会的にも満たされた状態こそが健康であるはずだ。家族との絆を断ち切り、尊厳を破壊してまで守る「健康」など、本末転倒である。

日本社会に深く根を張った「穢れ」への恐怖と、呪術的な安心感に、これ以上私たちの人生を委ねてはならない。我々が優先すべきは、顔も見えない「世間」へのアリバイ作りではなく、目の前の家族と過ごす「近代的人権」である。

個人の自由と権利を、今一度見直そう。医療という名の聖域に異議を唱えること。そこからしか、日本の医療、そして日本の社会の「正常化」は始まらない。

九条 丈二
都内民間企業勤務。家族の入院・面会制限を通じ、科学的合理性と情緒的伝統が衝突する現場の矛盾を痛感。専門家ではない一市民の視点から、日本人の深層心理に根ざした医療の特権化について分析を行っている。