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「墓掘り人」なき階級社会において、変革の主体はどこにあるのか。前稿はその問いを立てるため、現代日本の階級構造を整理した。今回は、資本主義社会の根幹にある「搾取」という概念に立ち返り、複雑化した階級関係のなかでそれがどのように現れているのかを考えていく。
(前回:変革主体論①:「墓掘り人」なき階級社会と対立なき時代の変革論)
橋本※1)の示した階級ピラミッドは5層である。第2層と第3層にパート主婦が同居しているから分類としては6分類になる。最下層に失業者の層があるが、本稿では搾取をテーマとするため、収入のない層は考察の対象外である。ここは経済学というより社会学、あえて経済学領域に入れれば、社会政策論、そして財政学、社会保障論の領域であろう。
※1)橋本健二著、『新しい階級社会 最新データが明かす<格差拡大の果て>』(2025年、講談社)
マルクスが経済学の研究をはじめた頃までは社会は三つの階級で構成されていた。資本家(ブルジョアジー)、労働者(プロレタリアート)、そして地主・貴族である。資本主義の内的法則を解明しようとした『資本論』ではもっぱら資本と労働の二大階級に焦点は絞られた。そのことによって階級対立が鮮明になり、対立の軸となる「搾取」に関する研究は中心性を持った。
資本家が労働者を搾取し、前者に富が、後者に貧困が蓄積する。このテーゼは多くの批判を乗り越えて現代でも世界のどこでも通用する。
しかし、それは発展させなければならない。
階級が二大階級でなく多数・多様になったら、それぞれの階級間の関係は飛躍的に複雑になる。複雑な事象に立ち向かうには焦点を定め順序を立てて進むよりないが、まず解明すべきは搾取である。
搾取の諸形態
以下では、被雇用者を労働者、雇用者(主)を資本家とする。
等価交換の土台の上に展開する搾取(このテーマでは私の論文※2)がある)がある。
※2)濱田康行、「協同組合理念と剰余価値(上)労使間のアコード(政策合意)を求めて(上、下)」(『共済と保険』701巻P.4–P.11、702巻P.10–17。2016年、共済保険研究会編)
等価交換※3)は資本主義社会のあらゆる経済的取引の原則であり、私的所有を守るという大原則の一部であり、どこの国でも商業道徳で、また慣習・法律(詐欺的取引の禁止)で守られている。
※3)マルクスを批判したことで有名なポパー(Karl Raimund Popper)は次のように言う。「搾取はたんなる強盗ではない」(カール・ポパー著、小河原誠訳、『開かれた社会とその敵 にせ予言者-ヘーゲル、マルクスそして追随者(上) 第二巻』、P.264。2023年、岩波書店)
また、橋本は「価値どおりに支払われているからこそ剰余価値を搾取できるのである」(橋本前掲書、P.64)
等価交換を土台にした搾取というのは矛盾しているように見える。等価交換なのに取引者の一方だけに富が生まれ蓄積されていくというのは謎である。先行する経済学者たちはこの壁に突き当たり立ち往生したのだ。『資本論』は「労働」と「労働力」を区別することでこの壁を突破する。少し回り道をしよう。
労働には二種類ある。自分の意思で行うものと、他に指示されて行うもので、自律的労働と他動的労働である。労働者が雇用され指定された職場で働くのは、明らかに後者である。
二つの労働の生産性をみると、前者>後者が一般的である。そこで労働者に効率よく働いてもらう(働かせる)工夫やノウハウが不可欠となる。それは労務管理という経営学の主要な一分野だ。一方、資本家の労働は前者に近い面がある。近いというのは、資本家も法則と必然に縛られているから、完全に自由ではないからだ。
他動的労働は働き方、労働時間は労働者の意思に関わりなく事前に資本家によって決められている。それは労働を開始するに当たって契約に書かれるのであり、その内容は雇用する側の主導で決まる。
労働者は労働を開始する。彼は労働力というエネルギーを支出する。その対価として賃金を受け取る。労働力には強度の違い(質の違い)があるが、ここでは度外視するとすれば、対価は時間という量で測られる。強度のある労働は、例えば通常の1.5倍というように。では単位時間あたりの労働力の対価はどう決まるか。労働ではなく労働力の価値である。
労働の価値は結果である生産物が販売されるまでわからない。ここで問題なのは、支出された労働力(例えば一日)の価値である。それは労働力を再生産するためのコストで決まる、というのが『資本論』の説明である。労働者が明日も働くためには食事、睡眠、休養、そして長期的には労働力の世代間での再生産費(子どもの養育)などが支払われねばならない。
モデル:剰余価値Ⅰ
単純なモデルで説明しよう。ふたつの前提をおく。①働くのは労働者だけ、②設備・原材料などは無視する。乱暴な説明のようだが詳しくは後で説明する。

Aは労働の開始点、Bは終点、つまり始業と終業の点である。これで100の商品が生産されたとする。ここに、中間のどこかにC点が現れる。これが賃金点である。それを60の商品に相当する点だとする。商品1単位が1で販売されるとすれば、賃金は60となり、彼は労働力を再生産できる(長期的にも)。これは等価交換である。資本家は60という労働力の等価を支払っている。しかし、労働はB点まで続く。
『資本論』ではA–Cを必要労働時間、C–Bを剰余労働時間と規定している。そこで生産された価値(剰余価値)はまず商品として現れ、それはやがて販売され貨幣として実現される。ではC–B間で生産された剰余価値は、誰の所有に帰するか。
労働者には対価は支払われているのだから、それは資本家のものになる。これこそ資本主義生産の秘密であり目的である。
ここで前提①を説明しておこう。
それは、モデルの中では資本家が働くことはないというものだ。彼らがオフィスや工場に入って労働者を指揮する、つまり監督労働をすることは当然であるが、それは剰余価値の生成をわかりづらくするためにあえて外してある。資本家の収入は剰余価値のみとすることで論理は鮮明になる。剰余価値から地代、利子が払われるというのは、理論の次元が発展した時のことである。そこではさらに、資本家の労働も企業家利得として認知される。
話を戻そう。では働きもしない資本家がC–B間の成果をなぜ「独り占め」できるのか。なぜ独り占めは批判されないのか。どうして当然なのか。
その答えは、生産手段(工場、機械、生産に必要な労働力以外の一切の物財)の私的所有である。端的にいえば生産物は工場で生まれる。それは単なる現象にすぎないが、その現象が私的所有に囲まれているという状況が、特別な作用をする。ここで問題なのは、一般的所有でなく生産手段の所有であるが、それが法的に守られていればこの現象は一般化する。つまり、当然のこととして社会的に認識される。
ここで前提②に戻ろう。前提で外しておいたものをここで導入するのは、以下の理由である。生産設備の私有を先に前提にすると、剰余価値は資本家の領有になるという論旨がわかりにくくなる。マルクス以前の経済学は、生産活動には労働者も資本家もそれぞれ貢献し、それに応じて配分を受けると考えた。つまり労働者には労賃、資本家には生産手段を所有しているその果実が与えられると。しかし、こうなると剰余価値はどこにも現れないのであり、つまり秘密は隠されてしまう。
生産手段は生産に貢献するが、それはその価値を部分的に生産物に移転しているだけなのである。剰余価値は労働からしか生まれない。生産設備は価値を生まない死んだ労働なのである。マルクスは流動資本と固定資本という区分をブルジョア的と批判し、代わって可変資本(労働力)と不変資本という概念を提唱した。利潤率よりも本質的概念として剰余価値率を規定した。
資本家は工場では働かず固定資本は想定しないという極端な想定をすることで、誰が剰余価値を生産し、それを誰が領有するのかという事態の核心が浮かび上がるのである。
モデル:剰余価値Ⅱ(歴史的形態)
C点は労働力の価値を示している。現実には価格変動があり、その中心点が価値である。理論では価値論から不動点を把握し、そこから価格変動を説く。しかし、労働力商品は特殊な商品であるために、ひとつの違いが生じる。

一般的な価格は価値点から上下に(私たちのモデルでは左右に)変動するが、労働力の価値を示すC点はもっぱら左に変動する。これは労働力商品の特殊性の理論的帰結であると同時に観察された経験的事実でもある。C点は最低点として機能することが多かった。先進諸国にはたいていある現代の最低賃金制度を見ればよい。
C点が左に移動すると、賃金が下がり剰余価値がその分増大する。しかし、労働者の生活はより苦しくなるから反抗も増大するし、資本家への社会的批判も強くなる。議会民主主義が成立していれば、これは問題である。
一時的な解決方法がある。それはB点の右方向への延伸、つまりA–Bの延長・労働時間の延長である。普通の言葉にすれば、時間当たりの賃金が下がった分を残業して取り戻すとなる。
言うまでもなくこの方法は労働者の心身を傷つける。だから、新たな労働力の補充がいつでもできるという条件があるときだけ選択される。それは労働者の使い捨てであり非人道的な行為だから、今で言う「ブラック」なのである。こういう現象は昔も今もある。それが成立する条件が昔も今もあるからである。
マルクスは産業予備軍と呼び、橋本は現代の舞台にアンダークラスを見いだしたのである。その下にさらに失業者が存在するのだから、現代の日本では賃金の下方硬直性がより強く作用する。失われた30年に困り果て、今では資本家階級が賃金を上げようとしている。
賃金の低下を凌ぐ方法がもうひとつある。それは労働者が安価に生活できるようにすることだ。ここでも二つの方向がある。一つは、労働者が切り詰めて生活することだ。それは労働家計の努力に依存するが、ここに思わぬ援軍が出現する。
もう一つは、後に述べる超過利潤をめぐる資本の競争である。特に消費財部門でそれが起きると、日用品は値下がりするから、労働者の家計を助けることになる。これは相対的剰余価値の生産である。
労賃が下がることへの緩和策を追い求めると、絶対的剰余価値(労働時間の延長)と相対的剰余価値(生活品の値下がり)の増大につながる。これは労働者階級が鉄の檻に閉じ込められていることを示す一つの例証である。「出口なし」、ジャン=ポール・サルトルの戯曲なのだ。
まとめておこう。剰余価値Ⅰは剰余価値の生産においてその現場で発生する。だから創造的である。これに対して剰余価値Ⅱは横取りだ。それは単なる移転であり、社会的にはゼロサムゲームだ。しかし、横取りを成功させた資本家は競争社会で勝ち抜くことになる。つまり勝者を強くすることには一時的な貢献をしているから、資本主義の発展に寄与するのである。
橋本はアンダークラスの賃金がC’の方にあることを指摘している。「次世代を再生産する費用を払っていない」(橋本前掲書、P.81)。払わない側は一時的に潤うが、自分の未来を閉じていることにもなるのだ。
剰余価値Ⅲ
利潤という概念が確立してしまえば、その源泉は剰余価値でなくとも構わない。個々の資本家にしてみれば利潤をしまい込む財布はひとつである。会計上は本業の利潤とその他の利潤、恒常的なものと一時的なものを分けて記帳するが、経営者と株主の重要な関心はすべてひっくるめた利潤である。
工場でわざわざ労働者に対峙し面倒な労務管理をしなくとも、どこかから利潤を横取りできればそれでよい。こういう傾向を「資本の寄生性」と呼んでおり、それは創造性の対極にある。先回りして言っておけば、剰余価値Ⅰ<その他の剰余価値になってしまうことは寄生性の高まりであり、すなわち資本の創造性の喪失である。
獲物の横取りは生物界では常態だが、利潤追求で意思統一された資本主義でも同様である。資本主義をタテ(歴史)とヨコ(世界)に拡大してみれば横取りは数多く見ることができる。各レベル、各次元で観察できる。小さい方から言えば、企業が他の企業から横取りする(後に述べる超過利潤のケースは極めて上品な例である)。日本で典型的なのは、多くの批判がありながら現在でも一般的な大企業と下請け中小企業の関係であろう。
産業間というレベルでも横取りはある。工業と農業、社会学の言葉に換えれば都市と農村の間には生産物の市場を介した、つまり市場価格に隠された横取りがある。さらに国と国、つまり先進国と途上国では比較生産費から説明できる取引構造があるが、ここにも先進国による途上国からの横取りが隠されている。
横取りは二者間で生じているばかりでなく、中間に様々な媒介項が入り込み真実が見えにくくなっているケースも多い。以上の雑多で多様な横取りを剰余価値Ⅲとしてくくっておこう。
C点の右側移動
右側へC点が移動するということは、労働者の収入・賃金が増えることになる。それは労働者が経済的に豊かになることを意味する。すぐ前にそれはめったにないと述べたが、それは個別のケースが少ないだろうという意味である。一国の単位で考えた時、あるいは同業の企業をひとまとまりで見た時、そこだけが大きな利潤をあげていて労賃も高い。そういう現象は多々ある。
ポパーは、マルクスの「資本主義の拡大とともに『貧困が増大する』」という主張を否定し、批判のひとつの柱にしている。
ポパーの活躍した時代は第二次大戦の後だが、この時点でもマルクスの時代(19世紀後半)と比べて労働者家計の豊かさが拡大したことは統計上で示されている。その原因は国家が介入したためというのがポパーの主張だが、これも事実である。
しかし、そうした国家の介入がどうして起こったのかについて、ポパーは説明していない。国家というものが最初から慈善の心を持っていたとでも言いたげだが、それではヘーゲルの天上に聳える国家と変わりがない。ポパーはマルクスと並んで人類の敵のひとりにヘーゲルを挙げているのにもかかわらず。
世界の共産党(それはバラバラでいくつかの国で崩壊寸前であるが)に属する人々もC点の右方移動を現象として認めている。ただ、ポパーのように国家が労働者の状況を改善するという直線的理解ではなく、自分たちが指導している運動の成果だと主張している。
C点の右方移動によってもたらされた豊かさが新中間階級を生み出した。レーニンの露骨な表現によれば、労働者の上層が買収されたのであり、その元手になった。
日本を見れば失われた30年の前までは賃金は上昇し労働家計は改善した。三種の神器はほとんどの家庭に行き渡ったし、3Cと呼ばれた家電製品もスマホも普及した。Cの右方移動による「恩恵」は莫大であり、レーニンの言う買収資金などという姑息なものではなかった。それは堂々としたGDPの一部分であった。
生じたことは労働運動指導部の右傾化というような局所的現象ではなく、労働者階級の全体的右傾化であり、その結果が橋本の言うような階級分裂であったのだろう。
次回予告
Cの右方移動は剰余価値の減少を意味するが、そんなことがどうしてできたのか。それは資本の側に余裕が生じたからだろうが、それをもたらした要因は何か。
搾取の形態は多様化したが、それが各階級の間でどう展開したか。特に資本家階級(A)と三つに分裂した労働者階級、新中間階級(B-1)、従来からの組織労働者(B-2)、そしてアンダークラス(B-3)、それぞれが対峙するなかで搾取関係がいかに展開したかを考察する。
(つづく)







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