パリの冬は、石造りの街並みを容赦なく冷やす。アパルトマンの窓から見える灰色の空を眺めながら、ぼくは手元にある一通の書類を見つめていた。日本の法律事務所から届いた、母の死と遺産に関する通知だ。
母、秋山美津子。かつて日本中の誰もがその名を知っていた女優。そして、十年前、ぼくを父の元に残して別れを告げた人。
それ以来、ぼくたちは一度も会っていなかった。たまにニュースで目にする彼女は、相変わらず美しく、そしてどこか孤独そうに見えた。
ぼくは十年ぶりに日本の土を踏んだ。母の自宅だった都内の高級マンション。そこには生活の匂いがほとんどなかった。大理石の床、高価そうな絵画、そして窓から見える東京の夜景。すべてが完璧に整えられ、それゆえに冷たかった。
母の遺体と対面したとき、ぼくは涙が出なかった。横たわる彼女は、まるで精巧に作られた蝋人形のようだった。
「お母さん」
呼んでみたが、その言葉は空虚に響き、広い部屋に吸い込まれていった。

葬儀の終わったあと、別室で佐藤という母の弁護士からくわしい説明を受けた。
「お母様の遺産の大半は、このマンションを含む不動産、そして彼女が遺した作品の著作権、印税収入。合計は概算で20億円です」
「20億…?」
書類に記された数字は、20歳を過ぎたばかりの大学生であるぼくには、あまりに現実味がなかった。20億。それは、ぼくがこれから何回人生を繰り返しても手にすることのないはずの、天文学的な数字だった。弁護士は淡々と続けた。
「現金は、実はそれほど多くありません。20億という数字は、あくまでこれら資産の評価額です」
彼は一枚のシミュレーションシートを差し出した。そこに書かれていた納税額を見て、ぼくは息を呑んだ。
「相続税が11億?」
ぼくの声が震えた。
「はい。現在の日本の税制では、この規模の遺産には最高税率に近い55%が適用されます。さらに、相続税は原則として、お亡くなりになってから10ヶ月以内に、現金で一括納付しなければなりません」
佐藤弁護士の説明は、氷のように冷たく理路整然としていた。母が遺した20億円という輝かしい数字は、裏を返せば「11億円の借金」を背負うことと同義だった。
不動産を売ればいい、とぼくは思った。しかし、急いで売却すれば足元を見られ、買い叩かれる。著作権はどうだろうか。母の歌や映像は今も愛されているが、それを現金化する市場は未整備で、短期間で11億を作るのは不可能に近い。
「銀行から借りるという手もあります。ですが、学生であるあなたにそれだけの融資が降りるかどうか。あるいは、数年かけて利子と共に返していくか……」
ぼくは、母の遺した豪華なソファに深く沈み込んだ。この20億を受け取った瞬間、ぼくは自由になるどころか、一生をかけて「税金を払うための奴隷」になるのではないか。母の遺した栄光を守るために、ぼくのこれからの人生が消費されていく。
世間では「20億もらえるなんて羨ましい」「税金を払っても9億残るじゃないか」という声が上がるだろう。ネットのニュースでは、すでに母の死と遺産について、匿名の人々が勝手な議論を戦わせていた。二重課税だ、格差是正だ、甘えるな、と。
だが、彼らは知らない。20億という数字が持つ、逃げ場のない重圧を。ぼくは、母の書斎の引き出しから一冊のノートを見つけた。そこには、日々の雑感と共に、彼女が何に怯えていたかが記されていた。
数字だけが増えていく。でも、誰も私の本当の姿を見てくれない。この家も、この服も、全部私が私であるための武装だった。けれど、重すぎる武装は、いつか私自身を押し潰す。
息子に、何を残せるだろう。お金? 権利? それは、彼を幸せにするだろうか。それとも、私と同じように、数字の牢獄に閉じ込めることになるのだろうか。
母は、分かっていたのだ。自分が築き上げた「成功」という名の城が、いつか愛する者を苦しめる武器に変わることを。
ぼくは窓の外を見た。遠くで街の灯りが揺れている。この20億を受け継ぐということは、母が抱えていた孤独と、逃れられない数字の呪縛をも引き継ぐということだ。
ぼくは決めた。ぼくは母の息子としてではなく、一人の人間として、自分の人生を歩きたい。
「相続を、放棄します」
ぼくの言葉に、佐藤弁護士は初めて表情を崩した。
「……正気ですか? 専門家に任せれば、納税の道はあります。9億の資産が手元に残るんですよ?」
「ええ、分かっています。でも、その9億を守るために、ぼくはこれからの数年間、いや十数年間、数字に追われて生きることになる。母がそうだったように」
ぼくはペンを置き、立ち上がった。
「母は、自由になりたくて家族を捨てたと言いました。なら、ぼくも自由になりたい。彼女が遺したお金を拒否することで、ぼくはようやく、あの人と対等な関係になれる気がするんです」
相続放棄の手続きを終えた後、ぼくは葬儀には出ず、そのまま空港へ向かった。冷たい世間の目は、ぼくを「愚かな息子」と呼ぶだろう。「11億から逃げた意気地なし」と。
だが、パリへ向かう飛行機の中で、ぼくの心は驚くほど軽かった。手元には、学生らしい使い古したバックパックが一つ。20億という数字の代わりに、ぼくの手の中には「自分の未来」が戻ってきた。
高度1万メートル。雲の上には、母のマンションから見た夜景よりもずっと美しい、汚れのない朝日が昇っていた。ぼくは、母の歌を口ずさんだ。それは、彼女がスターになる前に、幼いぼくに聞かせてくれた、とても静かな子守唄だった。







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