AIは“空気”を読まない。阿部慎之助氏騒動が映した共同体の限界(鶴澤 翔子)

「誰に相談すればよいのか」

その問いを、彼女は人間ではなくAIに打ち込みました。

5月25日、読売ジャイアンツの監督だった阿部慎之助氏が、長女への暴行容疑で逮捕・釈放され、翌日に監督を辞任しました。報道や辞任会見で読み上げられた長女からの手紙によれば、長女はChatGPTに相談した後、児童相談所に連絡。通報を受けた警察官が自宅を訪れました。長女にけがはなく、父親とは和解したとも伝えられています。

この件に言及する前提として、真相は外部からでは分からないということは押さえておく必要があります。事件にいたる経緯や暴行の内容、長女の手紙にある「父とは和解した」という言葉の真意。それらは報道からの情報だけで断定することはできません。また、阿部氏が暴行の事実を認めている以上、「家庭内の問題」と矮小化したり、長女の行動の是非を問う形で論じるべきでもありません。

一方、この件には単なる「有名人の不祥事」以上の重要な示唆が含まれているとみることもできます。それは、家族や職場といった共同体のなかだけで通じる常識――「普通はこう」「昔からそう」といった“空気”が、AIによって外へ開かれ始めているということです。そしてそのことには、光と影の両面があります。

本稿では、長女がChatGPTに相談したことに端を発したこの件を、個人を断罪するためではなく、社会現象の一部として考えます。共同体の論理とAIの関係、そして「言葉にすること」の意味について、子どもたちに言語化と思考の整理を教える立場から考えてみたいと思います。

巨人という共同体の中心にいたスター選手

私は、阿部氏の現役時代からのファンです。

毎打席を録画して何度も見返す。阿部選手のユニフォームとタオルを身につけて球場に足を運ぶ。そうやって、阿部選手のプレーに何度も勇気をもらってきました。

だからこそ、今回の件は率直に言って残念です。そして同時に、監督辞任という判断は妥当だったとも考えています。

阿部氏は、読売ジャイアンツという巨大な人気球団の中心で、長く期待を背負い続けてきた人物です。中央大学から2000年にドラフト1位で巨人へ入団し、新人時代から一軍でマスクをかぶりました。2年目にはベストナインとゴールデングラブ賞を受賞し、2012年には首位打者、打点王、最高出塁率、最優秀選手賞を獲得。通算では2000本安打、400本塁打を達成し、巨人の中心選手であり続けました。

この経歴を見れば、現役時代を知らない人でも、阿部氏が単に「人気のある選手」だったわけではないことは分かるはずです。巨人という巨大な共同体の中で、長く中心に立ち、称賛され、役割を背負い続けてきたスター選手でした。

長く一つの共同体の中心にいた人ほど、その内側で通用してきた価値観や空気を、外から見直すことは難しくなるのではないか。今回の件は、そうした問いも投げかけているように思います。

実際、野球界に限らずスポーツ界では、プロ・アマを問わず体罰や暴力が度々問題になってきました。球界のレジェンドである落合博満氏は高校時代に体罰を経験したことから、後に監督に就任する際「暴力厳禁」を掲げました。しかし、その実行には何年もの歳月を要したといいます。

今なお高校野球などでも暴力やいじめが報じられるように、この世界には「指導」や「秩序」の名目で暴力的な空気を容認してしまう土壌が長らくありました。

野球界に限らず、日本社会には、長きにわたり「空気」という名の秩序が根付いています。家庭、部活、学校、職場、業界。どの共同体にも、明文化されていないルールが存在します。「これくらい普通」「悪気はない」「親子だから」「身内のことを外に言うものではない」――そうした独特の論理が、閉鎖された共同体の内と外を分けてきました。

もちろん、今回は家族相手のプライベートな場での事件であり、職場とプライベートはまた別のものです。しかし、俗に職業病という言葉があるように、仕事での慣習、常識が無意識のうちにその人の言動に強く影響を与える(ように見える)と考えることもできます。

「まずAIに相談する」という新しい常識

近年、ここにAIという、共同体の外部にいる存在が入ってきました。

AIは、相手が有名人かどうかを気にしません。家族の事情も、周囲の目も、親の悪意の有無も、いったん脇に置きます。そして、入力された言葉をもとに、共同体の外にある一般的な社会基準へと静かに接続します。

「それは相談してよいことです」
「外部機関に連絡できるかもしれません」
「一人で抱え込まなくていいです」

これらの言葉は、共同体の空気の中では誰も言ってくれなかったことかもしれません。AIは、少なくとも家族や業界のしがらみには巻き込まれていません。忖度しない。立場を慮らない。だからこそ、封じ込められてきた違和感に、初めて名前がつく瞬間があります。

これは、ずっと声を挙げられなかった人、違和感を飲み込んでいた人にとってパラダイムシフトとも言える大きな転換です。

身近な人間ではなく、AIに相談する。これは今回に限った特殊な出来事ではありません。

内閣府の消費者委員会が2026年2月に実施した生成AIに関するアンケートでは、生成AI利用者のうち、10代女性の52.4%、10代男性の23.3%が使用目的に「悩み相談」を挙げました。その割合は全体でも23.3%となっています。また、人間関係や人付き合いに関する生成AIのアドバイスを「信頼している」と答えた人は全体で38.6%、10代男性で51.4%、10代女性では63.1%にのぼりました。

生成AIはすでに、単なる調べものや文章作成の道具にとどまらなくなっており、若い世代にとっては「まず話してみる相手」になっていると言えるでしょう。

人間に相談するには、勇気がいります。親族に話せば大ごとになる。友人に話せば噂になる。支援機関に話せば、何かが動き出す。その手前で、まだ整理されていない言葉をひとまず受け取ってくれる存在として、AIは機能し始めています。

AIが壊すのは「抑圧」だけではない

共同体の外部にある「一般論」とつながり、抑圧を抜け出す風穴を開けられるようになったことは、AIがもたらした良い影響といえるでしょう。しかし、AIは同時に、共同体や人間の心が持つ曖昧さを取り去ってしまう面もあります。

今回の報道では、長女は手紙のなかで、警察官が自宅を訪れたことに驚いたとしています。AIに相談し、児童相談所に連絡したものの、その先に何が起きるかまでは、十分に見えていなかった可能性があります。警察が来るほどの大事になるとは思ってもいなかったことは、おそらく事実でしょう。

ただの親子ゲンカに警察が介入するなんて、と思った人も多いでしょう。ただ、空気や曖昧さを取り除いて見れば家族間の暴力はDV、つまり犯罪として処罰の対象になります。学校や職場の中で行われるいじめが犯罪として処罰されるものも含むことと同じです。

家庭内の暴力が疑われる場合、外部機関につながることには重要な意味があります。よって、今回はAIが誤った答えを出したという話ではありません。問題は、仕組みにつながることと、感情が整理されることが、まったく別だという点です。

親を怖いと思う気持ちと、それでも嫌いになりきれない気持ち。助けてほしい気持ちと、大ごとにしたくない気持ち。怒りと罪悪感。そうした感情は、「正しい・間違っている」という座標では扱えません。

「空気」がなくなった後に残るのは、むき出しの感情と、法律と制度です。その間を埋めるものが、今の社会にはまだ足りていません。制度に届く前、あるいは制度につながった後に、本人の中に残る感情を言葉にしていく場が必要なのかもしれません。

「空気の後」に何が必要か

AIが空気を読まない以上、私たちはこれまで「空気で処理してきたもの」を、自分の言葉で扱わなければならなくなります。

これは許されることなのか。これは我慢すべきことなのか。自分は傷ついたと言っていいのか。

そうした問いを、共同体の中に沈めたままにできた時代は、終わりつつあります。AIはその問いを外に引き出す力を持っています。しかし、引き出された後の感情を受け止めるのは、人間でなければなりません。

制度につなぐことと、感情に寄り添うこと。この二つは、どちらかだけでは足りません。

今回の事件はファンとしてもあまりに残念な出来事ですが、AIが空気を壊す時代だからこそ、壊れた後に何が残るかを、私たちは今から問い直す必要があります。それは、AIに任せられない問いです。

鶴澤翔子 「コトハナ」主宰、国語・小論文講師、言語化支援コーチ
お茶の水女子大学文教育学部卒業後、証券業界を経て2017年にライフコーチとして独立。コピーライター・編集者としても活動するなかで「思いや考えを言葉にすること」に一貫して取り組む。
中学時代にいじめを受け不登校になった際、先生にじっくり話を聞いてもらうことで立ち直れた原体験から、通信制高校の生徒への国語・小論文指導により、言語化の重要性を伝えてきた。
現在は、学校に行けず悩む子どものための“自分の言葉を見つける”教室「コトハナ」を主宰。子どもたちの思考の整理と言語化を支援し「他者の協力を仰いで目的を達成できる」「他者評価ではなく自分軸で選択できる」ようになることを目指し指導する。
ビジネスメディア「シェアーズカフェ・オンライン」副編集長。ライフコーチワールド認定ライフコーチ。
公式サイト https://kotohana.info

【関連記事】

その関係は本当に対等?田川市長の報道から男性管理職が考えるべきこと (李怜香 社会保険労務士)
入社初日に「席がない」は論外…新人の信頼を一瞬で失う致命的NG対応 (瀬戸山孝之 特定社会保険労務士)
「NISA貧乏」はなぜ生まれたか?20代が貯金5万円で全額投資に走る本当の理由 (藤村哲也 投資顧問業)
110万円の家賃を払う板野友美さんとヤクルト高橋奎二さんの判断が正しい理由。(中嶋よしふみ ファイナンシャルプランナー)
世帯年収1560万円の共働き夫婦は、9540万円の湾岸タワーマンションを買えるのか? その1・生活費は年間800万? (中嶋よしふみ ファイナンシャルプランナー)


編集部より:この記事は「シェアーズカフェ・オンライン」2026年6月2日のエントリーより転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はシェアーズカフェ・オンラインをご覧ください。

コメント投稿をご希望の方は、投稿者登録フォームより登録ください。

コメント