AIの歴史は、西欧的な本質主義の挫折の歴史だった。かつて人工知能の研究者は、人間の知性には明確な規則があり、それを形式化すれば機械も知的にふるまえると考えた。そこには言語の本質には、普遍的な理性があるはずだという思想があった。
しかし世界には7000を超える言語があり、その文法も語彙も(同じ系統に属する言語を除くと)まったく共通点がない。ノーム・チョムスキーはすべての言語に共通する普遍文法を追究したが、その中身はほとんどなく、それを実装した人工知能は例外だらけで使い物にならなかった。
言語に普遍性はないのか
それは言語に普遍性がないことを意味しない。それは人間が世界を万国共通の数学的論理で把握しているのではなく、それぞれの文化や共同体の中で異なる仕方で世界を分節していることを示している。言語は世界の写像ではなく、人々の生活に差異を刻み込む装置なのだ。
この発想は、20世紀の西洋ではソシュール以後の構造主義や、デリダの脱構築で広く知られるようになったが、東洋思想には、はるか以前からあった。荘子は、言葉によって万物が区別されると考えた。老子も命名によって世界が人間の秩序の中に組み込まれることを見抜いていた。
仏教はこの思想をさらに深化した。中観派は、事物には固定した実体がなく、言葉によって仮に立てられているにすぎないと考えた。すべては「空」である。ここでいう空とは、何も存在しないという意味ではない。事物が自立した本質をもたず、関係の中でのみ成立しているという意味である。
唯識派は、さらに深い層を考えた。人間が世界を見るとき、主体と客体は最初から分かれているのではない。その背後には、経験や記憶や文化的なパターンが蓄積された深層意識がある。これが阿頼耶識である。井筒は、この唯識の発想を独自に展開し、言語アラヤ識という概念を提出した。
これは、単なる個人的無意識ではなく、ある文化共同体の中で歴史的に共有され、言語やイメージを通じて沈殿してきた暗黙知である。人は言語を学ぶことによって、その共同体が世界をどう分節するかを無意識のうちに学ぶ。
続きはアゴラサロンでどうぞ(初月無料)








コメント