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世界の動きを説明する「国際政治学」という学術用語は、ウクライナ戦争のメディア解説に登場する学者たちによって世間に広く浸透し、多くの人に知られるようになりました。
なお、この国際政治学の原語は「International Relations(国際関係論)」と言えます。約2000人の学会員を抱える「日本国際政治学会」の英語名称が The Japan Association of International Relations であることからも、そう考えるのが自然です。
そのため、このエッセーでは「国際政治学」と「国際関係論」という用語を併用しますが、両者は同じ学問を指すものの、微妙にニュアンスが違うことも、読みとっていただけるとありがたいです。
特殊主義の国際政治学と普遍的な国際関係論
日本の「国際政治学者」(ここではあえてそう呼びます)や、海外事情を取材するジャーナリスト、メディア関係者、そしてSNSなどで国際政治について発信する一般市民の多くは、私が見る限り「特殊主義の国際政治学」を信じて疑わないようです。
他方で、「国際政治には時代や場所を問わず当てはまる普遍的な論理があり、国家はその論理に基づいて行動している」という前提を受け入れる人は、むしろ少数派ではないでしょうか。
たとえば、強い国に対して弱い国が対抗行動をとる「バランス・オブ・パワー(勢力均衡)」の政治は、指導者の信条やパーソナリティ、言語や文化といった地域の特性に大きく左右されることなく、世界のどこでも原則として起こるものであると考える人は、専門家を含めて少ないように感じられます。
私は、こうした多数派とは立場を異にする「反特殊主義の国際関係論」の擁護者です(この用語は、小谷清氏の著作『反特殊主義の経済学』東洋経済新報社、1995年に依拠しています)。
かつてバブル期に台頭した「日本特殊論」は、日本の経済成長を「日本はズルいことをしているからだ」と決めつけ、「日本たたき」の温床となりました。
では、バブル崩壊後の日本経済の長期停滞も、標準的な経済学では説明できない「特殊」な現象なのでしょうか。私の知る限り、そのような説明は聞いたことがありません(あれば、教えてください)。
むしろ、経済学者のマンサー・オルソン氏の「集合行為論」にもとづく「国家興亡モデル」で説明できそうです。バブル後の日本経済は、彼の理論を用いて単純に拡大解釈すれば、経済繁栄→政府へのロビー活動による利益獲得を面倒な競争ビジネスより優先→既得権益の保護と規制強化→リスキーなイノベーションや起業の減退→停滞と衰亡、という流れになるでしょう。
「特殊論」は、自説を正当化するため、あるいは悪者とみなす対象をバッシングするために、しばしば恣意的に都合よく使われる「理屈」であり、健全な議論とは必ずしも言えません。
国際政治の分析でも同様のことが起きています。既存の国際関係理論は西欧のバイアスがかかった「特殊」なものだからそれ以外の地域には適用できない、とする「グローバル国際関係論」が世界的に勢力を強めているのです。「アジアの国際政治はアジア発の独自な視点でしか理解できないため、従来の国際関係理論を使うのは間違っている」と指摘する研究も増えてきました。
これに連動するかのように、「中国学派」と呼ばれる中国発の特殊主義国際政治学も台頭しています。この学派によれば、中国が構築するアジアの国際秩序は、道徳的で協調的なものであり、それに加わる国家は平和的に共生できる寛容な仕組みであるというのです。
こうした発想は、ヨーロッパの国際政治を語る際にも頻繁に見られます。「ウクライナ戦争の解説はヨーロッパやロシアの地域専門家、もしくは軍事評論家に頼るべきだ」という主張は、形を変えた「特殊主義」にほかなりません。
特殊主義の盲点
「特定の国家や地域には固有の特徴があり、そこで起こっていることを細かく観察できれば正しい判断ができる」、という「一般通念」には一理ありますが、その代償として大局的な視点を失いやすくなります。
たとえば、軍事ドローンという局所的に使われる一つの兵器の性能と短期的な戦況だけを見てウクライナ戦争の行方を予測するような分析は、その典型例です。こうした分析は、戦争の結果をより大きく左右する「総合国力(パワー)」という本質的な要因から人々の目を逸らさせてしまいます。
ウクライナ軍の元総司令官で現駐英大使のザルジニー氏は、このことを以下のように的確に指摘しています。
「ドローン技術(など)が…どちらの側にとっても決定的な突破を極めて困難なものにしている(が)…ロシアは依然として、より厚い人員の予備力と弾道ミサイル生産など、いくつかの重要分野の工業生産能力で優位を保っている…多くのアナリストが前線の毎日の動きにばかり注目し続けているが、それにより大きな戦略的現実を見失う危険を冒している」。
つまり、ウクライナ戦争はドローンが勝敗を決める、これまでとは違う「特殊」な戦争であるという見方を彼は戒めているのです。
もちろん、国際関係論は発展途上の学問であり、国際事象、とりわけ戦争のあらゆる側面を解明できる万能薬ではありません。
その一方で、国際関係の研究者は、膨大な時間と労力をかけて、西欧発の理論を汎用性のある普遍的な理論へと発展させてきました。今の国際関係論は昔とは違い、「西欧特殊主義」を克服しつつあり、世界中の研究者が参入する、より一般的な学問体系になっているということです。その証拠として、ミアシャイマー氏は「(世界最大の国際関係論の)国際学会(ISA)年次大会プログラムに目を通しただけでも、国際関係研究者が地球村に住んでいることは明らかである」と言っています。
そうであれば、これまで蓄積されてきた貴重な国際関係論の知見をウクライナ戦争やアジアの政治分析に活かさないのは、あまりにももったいないだけでなく、「特殊主義」の過ちを繰り返すことになりかねません。このことに気づいている人は、はたしてどれだけいるのでしょうか。
間違った「アジア特殊論」
ここからは少し専門的な議論になります。アジア特殊論がなぜ間違いであるのかを、シンプルに説明していきます。
「西欧バイアスに冒された国際関係理論ではアジアの国家間関係を説明できない」と強く主張する代表的な研究者に、デーヴィッド・ケイン(David Kang)氏がいます。彼は、現在の中国の台頭に対してアジア諸国がバランシング(対抗)行動をとっていないなどと理由づけて、標準的な国際関係論におけるリアリズム(現実主義)全般の妥当性を否定します。
つまり、アジアは「特殊」であり、中国を中心とする階層的秩序こそが安定的かつ平和的であるという仮説を立て、それが過去のアジアにおける冊封体制や朝貢体制によって証明されると彼は主張するのです。
とりわけケイン氏は、パワーの均衡が崩れたときに戦争が起こりやすいとする「パワー・トランジション(国力移行)理論」は、過去のアジアの大規模な戦争を説明できないだけでなく、現在の米中関係や日中関係を予測する上でも役に立たないと論じています。
アジアにおけるバランス・オブ・パワー
しかしながら、そのアジア文化特殊論的な論理もエビデンスも、国際関係論のリアリズムを葬り去るほど強力なものではありません。ケイン氏らが主張する「儒教的階層秩序による平和論」は、中国の歴代王朝が西欧の列強と同じように帝国を築いてきた事実や、隣国ベトナムなどと何度も戦争を繰り返してきた歴史的事実に反しています。
たとえば、彼は「秀吉の朝鮮出兵(1592〜1598年)」を事例に挙げ、この戦争は日中間のバランス・オブ・パワーとは無関係であると強調します。ここには、豊臣秀吉の日本が、本来ならば平和であるはずの中国を中心とした「天下」秩序を破壊しようとした、という善悪ストーリーも暗示されています。しかし、この戦争こそ、まさに欧米発の国際関係理論で十分に説明がつく事例なのです。
当時の明王朝は、アジアにおいて覇権的なパワーを持つ強力な国家でした。他方、日本は1590年に豊臣秀吉が天下を統一したことで、国家としての力を急速に高めていました。もちろん、総体的な国力では明が日本を上回っていたことは間違いありません。しかし、のちの太平洋戦争がそうであったように、劣勢な国家が優勢な国家の脅威に対して武力で立ち向かうことは珍しいことではなく、パワー・トランジション理論の核心的な仮説にも矛盾しません。
秀吉が朝鮮出兵に踏み切った真の意図については諸説あり、真相は不明です。しかし、この「東アジアにおける最初の大戦争」は次のように説明できます。
北方民族との争いや内紛によって衰退期にあった明に対し、国内統一を経て力をつけた豊臣政権の日本が、個人的な野心とも相まって、強大な明との「緩衝地帯」になっていた朝鮮半島を征服し、さらに明を弱体化させようとした——。要するに、秀吉の朝鮮出兵による日本と明との戦争は、古典的なバランス・オブ・パワー政治の帰結として十分に説明可能なのです。
埋め込まれた「善悪論」
特殊主義の「国際政治学」が抱える最大の構造的問題は、分析の中に「勧善懲悪」や「善悪二元論」が密かに隠されがちな点にあります。もちろん、戦争を正義と不正義の観点から語ることは大切です。その際には、「正戦論」という規範理論を明示的に用いて論理的に議論すべきでしょう。
それを行わず、客観的・実証的な分析を目指すはずの研究や解説の中に「善悪」という主観的な価値観を忍び込ませることは、市民を一方的な道徳的判断に誘導するだけでなく、合理的な情勢判断を歪める危険をはらんでいます。
ケイン氏らの「中国を頂点とする階層的な儒教平和論」や、「ロシアやヨーロッパの地域研究者」ならば分かるだろうという「特殊主義」に大きく頼るウクライナ戦争の時事解説が、これまで批判と応答、反論と再反論という果てしない試行錯誤を経て鍛え上げられてきた「国際関係の一般理論」による分析よりも優れているとは、到底断言できないということです。
私を含め、人間は「自信過剰バイアス」からなかなか逃れられず、誰しも自分の判断を過信しがちです。だからこそ、世間の常識や通念となっている見方であっても、私たちは一度立ち止まって疑ってみる、あるいは複数の視点から出来事を考察する必要があります。
その点、バランス・オブ・パワーというシンプルな一般理論は、特殊論に対抗して、複雑な国際政治を客観的に見通すために、今なお極めて頼りになる知的ツールなのです。







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