天皇はほとんどの日本人には関心のない存在だが、昨今の国会の騒ぎをみると、いまだに一部の人が執着しているようだ。本書で「いかに物語られてきたか」と問う「日本史」も、ほとんどは天皇の物語である。
天皇は明治以来、いろいろな物語の主人公になってきた。その戦前の代表が、なぜか本書の最後に出てくる平泉澄である。彼は東大の国史学科教授として皇国史観の第一人者だったが、戦後は公職追放となった。
平泉が1970年に出版した『物語日本史』は、明治の国定教科書のように天照大神などの「神代」から始まり、神武天皇に始まる天皇家の「皇紀」を中心として皇国史観を語る。しかし彼がそれを史実として信じていたわけではない。日本書記の記述には「無理がある」と認めている。
ではなぜ平泉は、このような史実に反する物語を語ったのか。彼は西洋に対抗して発展してゆく大日本帝国を支える皇国史観という歴史神学を求めたのだ。それはカール・シュミットが「政治神学」の哲学者としてナチスに殉じたのと似ている。皇国史観は「国体」を根拠づけ、国民を戦争に動員するための物語だった。
このように純粋な皇国史観は、今はない。本書の最初に出てくる『日本国紀』は、平泉の格調高い物語をネットの切り貼りで通俗化したものだ。それは歴史学の実証主義に妥協して万世一系も否定し、無味乾燥でつまらない。保守派には、かつてはマルクス主義の「自虐史観」を批判する物語があったが、今はその敵がいなくなって「史観」を失ったのだ。
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