犬猫食禁止法は「鯨を食べる日本」の論理を壊す

犬猫食禁止法という違和感

犬や猫を食べたいとは思わない。正直に言えば、かなり強い嫌悪感もある。だが、その嫌悪感をそのまま法律にしてよいのか。

日本維新の会が、議員立法で「犬猫食の禁止法案」の制定を目指していると産経新聞記事が報じた。報道によれば、犬と猫を食べることや、食用目的での輸入、飼育を禁じる内容だという。多くの人は反射的に賛成するだろう。「犬や猫を食べるなど許せない」と感じるのは自然な感情である。私も食べない。食べたいとも思わない。

犬猫食禁止法、維新が成立に腐心 中華料理店では依然提供、「日本なら食べられる」懸念
日本維新の会が議員立法で「犬猫食の禁止法案」の制定を目指している。名称の通り、犬と猫を食べたり、食用目的での輸入や飼育を禁じる内容だ。国際的には法規制が進む中…

しかし、法律は嫌悪感の延長であってはならない。国家が「かわいそう」「気持ち悪い」「日本人の感覚に合わない」「国際的に恥ずかしい」という理由で、人間以外のどの動物を食べてよいかを選別し始めるなら、それは食文化への国家介入である。

立法事実はあるのか

まず確認すべきは、立法事実である。2024年12月、松原仁衆院議員は犬猫食禁止に係る法整備に関する質問主意書を提出した。これに対し政府は、答弁書で「我が国において『犬や猫の食用消費』に係る問題が生じているとは認識していない」とし、現時点で犬猫の食用消費を禁止する法整備を進めるべきとは考えていないと答えた。

この政府答弁は、冷淡に見えるかもしれない。だが、法治国家としてはむしろ筋が通っている。法律で禁止するには、「多くの人が嫌がっている」だけでは足りない。実害があるのか。既存法では対応できないのか。規制対象は何か。誰の自由を制限するのか。そこを詰めなければならない。

悪いのは「食べること」なのか

犬猫食をめぐって本当に問題になり得るのは何か。盗まれたペットが食用に回ること。ペットショップやブリーダーの売れ残りが不透明なルートで処分されること。消費者に何の肉か分からない形で提供されること。不衛生な処理で食品安全上の危険が生じること。苦痛を与える殺し方が行われること。

これらは規制すべきである。だが、それは「犬猫だから食べてはいけない」という話ではない。規制すべきなのは、取得、飼育、処分、流通、表示、衛生、所有権侵害、虐待である。

現行の動物愛護管理法でも、犬猫は愛護動物に含まれる。愛護動物をみだりに殺したり傷つけたりすれば、5年以下の拘禁刑または500万円以下の罰金の対象となる。虐待や遺棄にも罰則がある。

また、と畜場法上の「獣畜」は牛、馬、豚、めん羊、山羊であり、犬猫は含まれていない。だから論じるべきは「禁止」ではなく、犬猫が食肉として扱われる場合に、動物愛護、食品衛生、表示、流通、所有権管理の制度で足りるのかという問題である。

売れ残り犬が食用に回ると何が悪いのか

「ペットショップで売れ残った犬が食用に流通しているのではないか」という疑念もある。だが、ここでも論点を誤ってはいけない。売れ残った犬が食用に回ること自体が、直ちに悪であるとは言えない。悪いとすれば、そこに別の問題がある場合だ。

ペットとして販売する前提で仕入れた動物を、説明なく別ルートへ流すなら、契約や説明責任の問題がある。盗難ペットが混じれば犯罪である。繁殖業者や販売業者が、終生飼養や適正管理の責任を逃れるために食用転用するなら、ペット流通行政の失敗である。不衛生な処理や虚偽表示があれば、食品行政の問題である。苦痛ある殺し方なら、動物愛護法上の問題である。

つまり、悪いのは「犬だから食べるな」ではない。悪いのは、不透明な流通、所有権侵害、虐待、不衛生、虚偽表示である。ここを混同すると、国家は簡単に「多くの人が嫌がるもの」を禁止できるようになる。

鯨食を守る日本の論理と矛盾する

この法案が最も危ういのは、日本が長年主張してきた鯨食の正当性を、自分で掘り崩しかねない点である。

日本政府は捕鯨について、鯨類を科学的根拠に基づき持続可能な形で利用すべき水棲生物資源の一つだと説明してきた。外務省の捕鯨に関する説明でも、IWC脱退後も科学的知見に基づく鯨類の資源管理に貢献していくとしている。外交青書2021でも、日本の捕鯨は十分な資源量が確認されている鯨種を対象に、科学的根拠に基づき持続可能な形で行われていると整理されている。

これは感情ではなく、資源管理の論理である。ところが日本が犬猫について、「かわいそうだから」「国際的に見栄えが悪いから」「日本なら食べられると思われたくないから」という理由で禁止するなら、反捕鯨国からこう言われるだろう。

「では、鯨はかわいそうではないのか」「鯨食も国際的には批判されている」「あなた方は犬猫については感情で禁止するのに、なぜ鯨については食文化だ、持続的利用だと言うのか」。

これはかなり痛い。鯨食を守りたい立場から見ても、犬猫食禁止法は悪手である。犬猫食を否定するために感情を法制化すれば、その同じ刃が鯨食、馬肉、鹿肉、猪肉、兎肉、鳩、昆虫食へ向かう。

多様性は、嫌いな文化にこそ試される

現代社会は「多様性」を唱える。宗教、国籍、性、ライフスタイル、文化的背景には寛容であれと言う。ところが食文化になると、急に「気持ち悪い」「日本では認められない」となる。それは多様性ではない。自分が許容できる多様性だけを多様性と呼んでいるだけだ。

犬猫食をしない自由はある。嫌悪する自由もある。批判する自由もある。不買する自由もある。店に行かない自由もある。SNSで「私は無理だ」と言う自由もある。しかし、国家に禁止させるには、嫌悪感を超える明確な公共目的が必要である。

多様性とは、自分が好きな文化を称賛することではない。自分が嫌悪する文化に対しても、国家権力の発動を慎むことである。

本当にやるべきこと

犬猫食を禁じる前に、やるべきことはいくらでもある。

ペットショップやブリーダーの在庫処分ルートを透明化する。マイクロチップと所有者情報の移転記録を厳格にする。盗難ペットの流通を防ぐ。不適切な繁殖・販売ビジネスを取り締まる。食肉として扱うなら、衛生、表示、処理方法、営業許可の基準を明確にする。動物を殺す場合の苦痛最小化を徹底する。消費者に何の肉かを分からせない提供を禁じる。

問題は犬猫食ではない。問題は、行政が把握できない流通であり、所有権侵害であり、不衛生であり、虐待であり、虚偽表示である。ここを潰す制度設計なら理解できる。しかし、「犬猫だから食べるな」と国家が命じるなら、それは食卓への道徳介入である。

国家は食卓の道徳警察になるな

犬猫を食べない社会でよい。多くの日本人が嫌悪するのも自然である。私もその一人だ。だが、嫌悪感は法規制の根拠ではない。

国家が規制すべきなのは、盗難、虐待、不衛生な流通、虚偽表示、絶滅危惧種取引、感染症リスク、資源管理の失敗である。国家が「この動物は家族だから食べてはいけない」「この動物は資源だから食べてよい」と道徳で線を引き始めれば、食文化の自由は多数派の感情に従属する。

犬猫食禁止法は、犬猫を守る法律に見える。しかしその本質は、国家が食卓に介入し、食べてよい動物と食べてはいけない動物を選別する法律である。しかもその論理は、日本が鯨食を守るために積み上げてきた「科学的根拠に基づく持続的利用」という主張を内側から壊しかねない。

犬猫食禁止法は、動物愛護の美名をまとった「嫌悪感立法」ではないのか。そしてそれは、鯨を食べる日本が最も警戒すべき発想である。

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