ネイティブアプリを向こうに回して、HTML5アプリ路線を推し進める Financial Times。
本稿では、そのHTML5アプリをめぐる戦略の現実と、将来に向けたモバイル戦略を紹介する。
昨年(2011年)夏、Apple が決めたアプリ内課金収入をめぐる規約の厳格化に反発し、英国の経済紙 Financial Times(FT)が Apple の運営する「App Store」でのアプリ配布取り止めたことは、よく知られた事実です。
FT は、App Store からの撤退に合わせて、HTML5 を用いた Web アプリをリリースし、従来のアプリユーザーに対しそちらへの移行を促したのです(その経緯については → こちら を参照)。
以後、OS やデバイスを特定したアプリ(これをネイティブアプリと呼びます)開発を今後も促進すべきか、あるいは、FT が選択したように、プラットフォームの差異に影響を受けにくい、(Web ブラウザから利用する)Web アプリを開発していくかべきかという、“ネイティブ vs. Web”議論がいまに至るまで続くことになります。
Financial Times の HTML5 アプリ 左)ブラウザからアクセスすると、アプリへ誘導される 中)アプリへアクセス中 右)ブラウザ内でアプリが起動した
この議論には、HTML5 の成熟度をめぐる純粋に技術的な論議もさることながら、OS やデバイスをつかさどるベンダーと開発者との間のビジネス面での利害得失に絡む側面もあり、複雑な様相を見せています。
本稿では、昨夏、反 App Store 戦略を打ち出し一躍注目の的となった FT アプリの現状と、そのビジネス戦略、そして HTML5 アプリの将来性などについて、FT 電子版責任者への最新インタビューの紹介を中心にして整理をしていきます。
紹介するのは、TabTimes 掲載「The Financial Times marches to a different app drummer; embraces HTML5, Android, Windows 8」(フィナンシャルタイムズは、アプリで他と違う道を行く HTML5・Androdi・Windows 8 を強く支持) です。語るのは、注目を浴びてすっかり有名となった FT 電子版の総責任者 Rob Grimshaw 氏です。
記事は、FT 電子版の有料購読者が、この7月にはじめて印刷版のそれを上回ったとします。さらに、電子版が5月に200万ユーザー、9月には300万に達するなど順調に成長しているとしています。この数字には、ユーザー登録制の無償閲覧者を含んでいます。ちなみにこちらの 記事 では、昨年8月段階で FT のネイティブアプリユーザーは「55万」であったとしています。
さらに、電子版の新規購読者の15%がモバイルユーザー(スマートフォンおよびタブレット)であり、そのモバイルユーザーからのアクセスが、すでに Web サイト全体の1/4に達しているとのことです。
この順調な成長を受け、「HTML5 アプリは、ネイティブアプリとの闘いで勝利に近づいている」と Grimshaw 氏は胸を張る一方、アプリ開発者の興味深い動向を以下のように語ります。
開発者は、ハイブリッド型アプリの開発を増やしています。
ハイブリッド型アプリとは、ほとんどのコードを HTML5 で書きつつ、ストアで配布するために、あるいは、ネイティブアプリならではの機能を追加するために、軽いネイティブ(アプリとしての)ラッパーで HTML5 のコアコードをパッケージしたものです。
ここで語られる(HTML5 アプリをくるんで、ネイティブアプリに見せる)「ネイティブラッパー」とはどんなものでしょうか?
Publickey の記事「HTML5 のモバイルアプリを“ネイティブアプリ化”する『PhoneGap』が正式版に。オンラインでの変換サービスも発表」が参考になります。
jQuery Mobile のようなマルチデバイスに対応したモバイルアプリケーション用フレームワークと組み合わせると、HTML や JavaScript などの Web 標準の技術で容易にマルチデバイス向けアプリケーションを開発し、それをさまざまなデバイスに対応したネイティブアプリケーションへと変換可能になります。
ネイティブ化したアプリケーションは、当然ながら AppStore や Android Market(引用者注=現在はGoogle play と改称)などで販売可能です。
ただし PhoneGap のネイティブアプリケーション化は、ネイティブコードへとコンパイルするのではなく、Web アプリケーションをラップして実現する方式なので、アプリケーションの実行速度はそのままです。
「PhoneGap」というフレームワークに関する記述ですが、Grimshaw 氏が語るネイティブラッパーは、おおむねこのようなもののはずです。
開発者(アプリ提供者)にとり、ネイティブラッパーがもたらすメリット・デメリットは、次のようなものです。
- アプリのコアとなる部分を、HTML5 によって OS やデバイスに依存しない実装を行うため、開発済みアプリを他のプラットフォームへと移植する際の変更を軽減できる
- Web 標準である HTML5 中心の開発ながら、ネイティブアプリの姿を持つため、App Store 等で配布、販売が可能
- OS 固有の API 等を用いない分、アプリの実効速度などでネイティブアプリに劣る。同じ理由で、OS が固有に提供する機能や UI などを利用できないケースがある
ここにアプリビジネスの展開という面で面白いことに気づきます。
冒頭述べたように、FT はApple によるアプリ販売面での規約厳格化と衝突し App Store とたもとを分かったのですが、ネイティブラッパーでパッケージする手法とは、むしろ Web 標準で開発したアプリをネイティブ化することでストア経由で配布するための手立てであるのです。
技術における原理主義的論争のように伝えられがちな“ネイティブ vs. Web”議論ですが、実はストア(App Store や Google playなど)を司るプラットフォーマーとアプリ開発者との間の虚実ある駆け引きの面が強いことがわかります。
記事に戻りましょう。Grimshaw 氏はこう語ります。
アプリの販売環境(ストア)は、アプリ提供者にとって重要な課題です。読者との関係を築こうと思っている(FT のような)プレーヤにとってはなおさらです。
私たちは、いかなるストアとも取引するのに支障はありませんが、もし、読者との直接の関係を築けないなら、そこにはいられません。(読者との直接的な関係性は)高価な広告販売や購読制を維持するための死活問題なのです。Apple は、頑固で実利主義的です。彼らは30%(手数料を)徴収できると思えば取るでしょう。アプリ提供者の使命は、資産は自らが築くべきだということです。多くのメディア企業は、その素晴しいコンテンツによりブランドや資産を築き上げきたのですから、自らの存在を人に伝えるためだけに Apple や Androidのストアにいなければならない必要はないと思います。もし、ストアの規約が自らに適さないのであれば、自信を持ってそう振る舞うべきなのです。
同氏が語るのは、プラットフォーマーとの付き合いはケースバイケースだということです。
それを裏づけるように、記事は、FT がメジャーのメディアとしては初めて Windows Store でアプリを配布を始めた存在であること、また、Google play でもネイティブアプリを配布している事実をあげます。
その理由を、同氏は両ストアとの関係が極めて良好、言い換えれば好取引条件(ユーザーのデータを保持できること、アプリ内課金への非チャージ)であることを明瞭に認めているのです。
つまり、FT が推進する HTML5 アプリ化戦略は、多プラットフォームへの適合という観点での開発生産性を高めるメリットと、ストアとのタフな条件交渉を優位に進める手法でもあることがわかります。
ストアの集客力等を活かしてネイティブアプリをマーケティングするのも、あるいは、ストアとの条件交渉が決裂すれば、独自のマーケティングを行うことも可能という、意思決定の自在さを担保する後ろ盾だという意義が見えてきます。
FT の HTML5 アプリ戦略は、ストアから単に遠ざかるための施策ではなく、ストアでの販売、ストア外での展開のいずれをも柔軟に採用できるためのものなのです。
最後に、FT 電子版が見ている近い将来のニュースメディア市場について確認しておきます。
今のところ、私たちのメディアではモバイルと PC からのアクセスは継続的に伸びています。読者はかつてはあり得なかったような状況からモバイルでアクセスしてきます。また、デバイスを取っ替え引っ替えしながら、1日中 アクセスしてきます。
しかし、この状況は変化します。1年か2年の間に、モバイルからのアクセスがメインとなるでしょう。中国やブラジルを見てください。人々は最初からモバイル経由でインターネットにアクセスしているのです。モバイルは、短期間で PC からのアクセスを“絶滅種”へと追い込んでしまうでしょう。
Financial Times 電子版の戦略の現在と未来が確認できたと思います。FT はまず印刷版購読者を電子版のそれが追い抜くことを肯定しています。
また、PC からのアクセスのための Web メディアを維持しつつ、モバイルデバイスからのアクセスがあれば、それを HTML5 ベースの Web アプリへと誘導し、着々とモバイルユーザーを獲得しているのです。
いずれ、モバイルからのユーザー層が同社の主要な読者層になると分かっているからです。ニュースメディアの未来を見すえたその動向を、今後も見守っていかなければなりません。
編集部より:この記事は「BLOG ON DIGITAL MEDIA」2012年10月2日のブログより転載させていただきました。快く転載を許可してくださった藤村厚夫氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方はBLOG ON DIGITAL MEDIAをご覧ください。