
正直に言う。あの待合室が、いまだにトラウマだ。
日本人は列に並ぶのがうまい。駅のホーム。災害時の給水車の前。ラーメン屋。SNSで「日本人すごい」と拡散される、あの整然とした列。私も誇らしく思っていた。思っていたのだ、フランスに来るまでは。
『フランス人の気楽な働き方、全力の休み方』(トレオレル 美智子 著)フォレスト出版
住んでいるのは、日本人どころか外国人すら滅多にいない街だ。だから「どこの国から来たの?」と聞かれるのは日常茶飯事で、「日本です」と答えると、みんな驚いて、そして喜ぶ。「日本に行ったことがない」「日本人に会ったことがない」——ほとんどがそう言う。
つまりその瞬間から、私はその人にとっての日本人代表になる。重い。いや、光栄ではあるのだが、重い。私がだらしなくすれば「日本人ってだらしないんだ」になるのだ。だから背筋を伸ばす。列にもきちんと並ぶ。並ぶ、はずだった。
受付がない。整理券もない。列もない?
役所へ行った。用件の内容は忘れた(大したことじゃなかったと思う)。
まず驚いたのは、部署が分かれていないこと。一人の職員が、一つのデスクで、全部やる。日本の市役所にある、あのフロア案内図は何だったのか。
で、もっと驚いたのがここからだ。受付がない。
外のドアを開けたら、そこがもう待合室。番号札を出す機械もない。名前を書く紙もない。そして——列がない。
順番が来た人が、奥の扉を開けて入っていく。それだけ。
いや、待ってほしい。
どうやって自分の順番を知るの?
椅子に座った順かと思った。日本のレストランでよくある、あの順番待ちの椅子。あれだと思って見回したら、椅子はバラバラに空いている。後から来た人が、平気で一番奥に座る。順番が来て立ち上がる人も、座っている位置とまるで関係がない。
順番を守りたいのに、順番がわからない。日本人代表として、これほど情けない状況があるだろうか。私はとりあえず、入口から一番近い席に座った。逃げやすいから、という気持ちも正直あった。
誰も教えていないのに知っている
奥から用の済んだ人が出てくる。すると待合室の誰かが、すっと立ち上がって入っていく。
誰も呼んでいない。誰も咎めない。揉めない。全員が、自分の番を知っている。
待っていたのは10人ほど。前の人が帰り、新しい人が来て、右に左に好き勝手に座る。メンバーは入れ替わり続ける。私はとっくに、自分が何番目なのかわからなくなっていた。
しばらくして、白髪交じりの男性と、その隣の女性が私に言った。
「ほら、あなたの番よ」
なんでわかるんですか。
お礼を言って、慌てて扉を開けた。用事は済ませた。何を話したかは覚えていない。帰り道、ずっと同じことを考えていた。子どもの頃からこれをやっていれば、そういう能力が身につくのだろうか。それとも私の頭が悪いだけか。
後で知ったが、この「並ばない待合室」は役所だけじゃない。病院も、あちこちの施設も、全部これ。珍しくもなんともない、この国のスタンダードだった。
「あー、まただ、どうしよう」
出くわすたびに、そう思った。苦痛だった。でも、これが当たり前の国にいるのだから、文句を言っても始まらない。誰かに「あのー、順番ってどうやって」と聞くのも気が引ける。聞けば「変な日本人」の記憶を残してしまう。
だから私は、自力で攻略しようとした。その顛末は、次に書く。先に言っておくと、惨敗である。
※ここでは、本編のエピソードをラノベ調コラムに編集し直しています。
尾藤克之(コラムニスト、著述家、作家)
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