私の実家の真ん前に信用金庫があります。商店街のど真ん中に位置し、その昔は商店街を支える中心的役割を果たしてきました。商店街のイベントには信用金庫の職員が休日でも手伝いに来たりして、共に歩むという姿勢を見せました。また自転車に乗って集金に行く元気な若手行員の姿は心臓から繰り出す地域の血液のような役割だったというのは言い過ぎでしょうか?

key05/iStock
しかし、私の実家の周りの商店街は完全に廃れ、今では日中に行っても商店もまばらで行き交う人も多いわけではありません。当然ながらかつての中心であった信用金庫も出入りするのはお年寄りばかりでこの2-30年、なぜこの信用金庫は今だ存在し続けているのか、私の中で解けない疑問であります。
かつてメガバンクの支店長と話をしていた時、個人口座を作るなら支店数が多くてATMでお金を引き出しやすいところが便利ですよ、と言われたことがあります。今では銀行間で提携しているのでどこのATMでもお金はおろせますが、かつては利用のしやすさが判断基準だったので信用金庫のキャッシュカードはもっとも使いにくいと考えられていました。
信用金庫はもともとは一種の互助会が前身であり、今でもNPOであります。よって私の実家にもわずかな金額ですが、信用金庫への出資証券があります。よって信用金庫の経営は安全第一となります。
と言っても金融機関として経営する以上、誰かに貸出をしなくてはいけないのですが、もともとは近所の個人事業主や中小企業が最大の借り手でですから資金需要は限られてしまいます。一方、信用金庫をタンス預金の代用として愛用するのは近所の御老人の方で何十年も寝かせ続けている定期預金証書をわんさと抱えているのです。とすると貸出よりも預金の方が多くなるので信用金庫は資金運用をしなくてはいけません。
そこで、余資を投じたのが国債であります。その国債価格が下がり続け、信用金庫全体が抱える国債の含み損は3兆円規模になり、前年から1兆円も増えています。そして仮に日銀が今後もまだ金利を引き上げるのなら国債価格は更に下がりますから来年の今頃は4兆円の含み損になっているかもしれません。
国債は満期まで持っていれば償還されるので大丈夫、と言いますがこれは正しくもあり、正しくないとも言えます。
多くの銀行や信用金庫が国債を買ったのはまだ低金利の頃だったのです。よって国債の利回りが1%とかそれ以下かもしれません。今は銀行間の借り入れコストははるかに高いわけですから低い利回りの国債から得られるリターンでは足りず、赤字が膨れ上がることになるのです。そのため、売却して損を実現せざるを得ないところが出てきているわけです。損切りすることで寝ている現金を活用する意味合いもあります。この損切りができる体力がある信用金庫なら良いのですが、それができない信金はかなり厳しいところに追い込まれるとみています。
では同じ問題は地銀でも起きるのか、と言えばこれは銀行の体質が全然違うので起きにくいのです。理由は地銀は比較的上場企業の株式を持っているのでその含み益があり、国債の含み損を吸収しても十分おつりがくるレベルにあるのです。ところが信用金庫は経営方針的に取引先に上場企業が少ない上に安全な運用に限るため、株式運用はほとんどしていないのです。ここに体力の差が生じたのです。
ところで投資の世界では最近、オーガニックという言葉が良く出てくるようになりました。これは本業という意味です。こちらでは企業決算が出るとオーガニックビジネスが成長しているかが問われます。何故かと言えば近年はM&Aで企業の収益源が大きく変化する中で本業が見えにくくなっているのです。そのためにわざわざ本業部分だけを取り出し、オーガニックビジネスはどうかというのを検証するのです。
信用金庫はこのオーガニックの部分が大きく欠落しています。そして貸出先もないので資金運用として国債を所有し、それが大きな含み損となっています。このビジネスモデルに健全性はありません。つまり冷たく突き放すようですが、信用金庫の役目は既に終わりつつあると考えています。もちろん、今すぐになくなると困るでしょうから時間をかけて清算していくべきだと思います。
金融の世界は保守性を重視します。よって金融庁もいかに健全性を維持しながら温存するかというスタンスにあると思います。が、昨今、地銀は再編が進んでいるものの信用金庫は取り残されたようになっています。これは一種の不作為であって金融庁が監督官庁として権限を持つならば信用金庫の在り方と将来、再編なり再構築するプランを講じないとそれこそ地域住民に多大なる影響を及ぼす可能性があることを認識された方が良いと思います。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2026年9月3日の記事より転載させていただきました。






コメント