
「異なる集団との接触は偏見を減らす」。これは社会学や社会心理学、政治学などの社会科学に相当の研究蓄積がある。「多様な人材を持つ組織は、新しい発想を生みやすい」。これも条件付きながら、経営学で繰り返し論じられてきた。
では、この二つから「移民によって国家の人口構成を多様化することは望ましい」と結論してよいのだろうか。否である。
別々の研究結果をつなぎ合わせて、「だから移民による多様化は望ましい」と結論するのは、話が飛び過ぎている、と考えざるを得ない。
「多様性」が何を良くするのか
たとえば、社会心理学の研究が示すように、異なる集団との適切な接触は偏見を低下させ得る。政治学の分析では、民族的多様性と社会的信頼との間に、平均的には弱いながらも負の関係が確認されている。これは矛盾ではない。
外国人の同僚と一緒に働くことで、その人への偏見が減ることと、地域社会の人口構成が急速に変化したときに近隣住民への信頼が高まることは、そもそも別の話だからだ。
多様な都市ほど生産性が高い、という研究もある。しかし、「都市の生産性」と「そこに暮らす人々にとって望ましい社会」であることも同義ではない。
ところが現実の議論では、接触、創造性、生産性といった異なる研究成果が一括りにされ、いつの間にか「多様性は社会にとって善である」「だから移民を受け入れるべきだ」という政策上の結論に変換される。そこには何段階もの論理の飛躍がある。
企業は国家ではない
さらに問題なのは、企業と国家を同じように扱うことである。
企業には利益、生産性、成長など比較的明確な目的がある。誰を採用するかを選び、配置し、評価することもできる。多様な人材構成が成果につながらなければ、市場競争というフィードバックも働く。
国家社会は違う。住民は「日本株式会社」の社員ではない。国家の良し悪しをGDPやイノベーションだけで測ることもできない。何より、企業の人員構成を変えることと、国の人口構成を変えることでは、失敗した場合の意味がまるで違う。
人口減少が進む日本で、外国人労働力が必要になる場面があることは否定しない。しかし、人手が足りなければ、まず賃金を上げる。省力化、自動化、価格転嫁を進める。それでも成立しない事業には、縮小や退出もある。安い外国人労働力を大量に供給すれば、本来起こるべき賃金上昇や産業構造転換を遅らせかねない。この点は既に多くの識者が指摘している。
それでも外国人労働力が必要なら、労働政策と人口政策を分けて考えればよい。シンガポールのように、人数や職種を管理し、雇用主には外国人を雇う追加コストを負担させ、少なくとも低技能労働については就労と恒久的定住を当然には結びつけない方法もある。珍しい発想ではない。だからこそ、日本でも正面から議論すべきだと思う。
人口政策は後戻りできない
外国人労働者の受入れを少なくし過ぎたと分かれば、後から増やすことができる。税制も補助金も産業政策も修正できる。しかし、人が定住し、家族を持ち、地域社会を形成した後で、「政策判断を間違えたから元に戻そう」とは言えない。移民を抑え過ぎた失敗と、移民を受け入れ過ぎた失敗は、「その後」がまるで異なる。この「後戻りできるかどうか」という違いを、もっと重く考えるべきではないか。
「外国人を入れなければ経済が縮小する」と言われる。そうかもしれない。物価が上がるかもしれない。便利なサービスが減るかもしれない。経済規模も小さくなるかもしれない。
では、それを避けるためなら、人口政策によって社会を不可逆的に変えてよいのだろうか。長い時間をかけて形成されてきた地域の静けさ、生活上の暗黙のルール、人と人との距離感。圧倒的多数を日本人が占める環境の中で暮らし、営々と積み上げてきた「何気ない日常」を、経済規模を維持するための代償として手放す覚悟が、私たちには本当にあるのだろうか。
経済は社会を維持するための手段である。社会が経済を維持するために存在するのではない。多様性という言葉の響きの良さに政策判断を預けるのではなく、外国人労働政策と移民政策を分けて、何を守り、何を諦めるのかを、遅きに失する前に私たち自身が真剣に考えるべきではないだろうか。
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法島 正和
玉川大学教授。専門は組織行動論・経営学。航空・ホテル・旅行業界で約25年の実務経験を経て大学教員に。観光・ホスピタリティ分野の教育研究に携わる。







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