ハンガリーの首都ブダペストの国会議事堂前にあるコシュート広場で23日、1956年の民衆蜂起(通称ハンガリー動乱)から70年を迎え、追悼・記念式典が盛大に挙行された。欧州委員会のウルズラ・フォン・デア・ライエン委員長や、欧州理事会のアントニオ・コスタ議長をはじめとする欧州連合(EU)の最高幹部・各国要人がブダペストを訪問し、公式記念式典に参列した。

首都ブタペストを制圧するソ連軍 Wikipediaより
フォン・デア・ライエン委員長は国会議事堂の本会議場で演説を行い、1956年の英雄たちの犠牲を追悼しつつ、マジャル政権下での「欧州復帰」を歓迎。そして1956年の犠牲のもとに実現した「統合された欧州」を守り、今後も連帯を維持することが現代の我々の任務であると強調した。
一方、 マジャル首相は1956年の自由への闘志を引き継ぎつつ、国際社会におけるハンガリーの新しい立ち位置を表明し、「ハンガリーの居場所はヨーロッパにある」と述べ、孤立を招いた前政権の方針を是正してEUとの絆を強める一方、独自のアイデンティティを維持し、尊敬されるEU加盟国を目指すと語った。
ハンガリー動乱は1956年10月23日、旧ソ連共産政権に支配されてきた国民や学生が民主化と自由を叫んで立ち上がり、ハンガリー国民は一時、政府関係施設などを占拠し、民主化に乗り出したが、ソ連軍が介入し、わずか2週間ほどで民主化運動は終わった。同動乱で数千人の市民が殺害され、約25万人が国外に政治亡命した。隣国オーストリアにも多くのハンガリー人が政治亡命してきた。
同動乱はポーランドの自主管理労組「連帯」運動やチェコスロバキア(当時)の自由化路線(通称「プラハの春」)に先駆けて起きた東欧の民主化運動だった。ハンガリー動乱は、旧ソ連の衛星国家であった東欧諸国の国民の記憶に長年にわたり暗い影を落とした。東欧の民主化は、国民が再び立ち上がる1980年代まで待たなければならなかった。
そして動乱から33年後の1989年、ハンガリー社会主義労働者党(共産党)政権はオーストリアへの国境を開放し、多数の旧東独国民がこの国境を通過して西側の自由世界に殺到、その結果、旧東独社会主義統一党(共産党)政権が崩壊する契機となった。
ハンガリー共産党の改革派代表だったミクローシュ・ネーメト首相(当時)は、臨時党大会を控えた89年10月2日、当方との単独会見に応じ、「党大会では保守派とは妥協しない。必要ならば新党を結成、わが国の民主化を前進させたい。新生した党は共産主義イデオロギーから完全に決別し、議会民主主義に適応した真の政党づくりを目指す」と言明した。ソ連共産党の支配下にあった東欧圏で共産主義から決別を公表したのは同首相が初めて。東欧共産圏の崩壊に大きな弾みを与えた。オーストリア代表紙プレッセもネーメト首相の発言を一面トップで報じた。

当方との会見で共産党独裁政治から決別を表明したハンガリーのネーメト首相(1989年10月2日、首相執務室で、ハンガリー国営MTI通信)
ハンガリーで1990年3月、共産圏から解放されて最初の民主選挙が実施された。1947年以来、約43年ぶりとなる複数政党による民主的選挙だった。共産主義体制の一党独裁に終止符が打たれた歴史的な選挙となった。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2026年10月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。







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