専門家とメディアがつくる日本の「無責任社会」:『なぜ「まちがえた」と言えないのか』

不安が生み出す「専門家依存症」

社会が大きな不安や危機に直面したとき、人々は分かりやすい答えを求める。その期待に応えるように、テレビやインターネットには次々と「専門家」が登場する。それまで一般には無名だった学者が、メディアへの出演をきっかけに絶対的な権威として扱われ、その主張を疑うことさえ許されない空気が生まれる。

元歴史家・評論家の與那覇潤による『なぜ「まちがえた」と言えないのか』(東洋経済新報社)は、こうした日本社会の「専門家依存症」を鋭く批判した一冊である。

本書が問いかけるのは、専門家がなぜ間違えるのかという問題だけではない。なぜ専門家の予測が外れても、本人もメディアも過ちを認めず、社会全体がそれを許してしまうのかという、より根深い問題である。

與那覇は、この構造を戦前・戦中の日本社会とも重ね合わせる。

かつて日本では「一億玉砕」「撃ちてし止まん」といったスローガンが人々を支配した。しかし敗戦を迎えると、それまで戦争を支持していた人々も、まるで最初から反対していたかのように態度を変えた。

そこには、他人に解決策を委ね、時代の空気に流され、結果について責任を引き受けないという、日本社会に繰り返し現れる構造がある。

「42万人死亡」という数字は何だったのか

その典型として挙げられるのが、2020年の新型コロナウイルス禍の「8割おじさん」と呼ばれた西浦博である。西浦の感染予測は、政府の政策や国民の行動に大きな影響を与えた。

特に衝撃的だったのは、感染防止策を何も取らなければ、国内で約42万人が死亡する可能性があるという試算だった。前提条件や不確実性が十分に理解されないまま、衝撃的な数字だけが独り歩きしたことである。

「人との接触を8割減らす」という目標も、いつしか科学的な仮説や政策上の判断を超えて、社会全体が従うべき絶対的な規範のようになった。

外出や営業の自粛をめぐっては、異論を唱えること自体が非難され、国民同士が互いの行動を監視するような空気さえ生まれた。

本来、科学的な予測とは、一定の仮定に基づくものであり、新しいデータが得られれば修正されるべきものである。ところが、メディアが専門家である西浦を「絶対に正しい存在」として祭り上げてしまうと、その予測を検証すること自体が難しくなる。

問われるべきなのは、感染対策が必要だったかどうかという西浦や尾身らの設定した幼稚な二者択一ではない。対策の効果と社会的・経済的な損失を、どこまで冷静に比較し、事後的に検証できたのかということである。

「まちがえた」と言えないメディア

さらに深刻なのは、専門家の発言を増幅させてきたメディアの責任である。

テレビにとって、不確実性を丁寧に説明する研究者よりも、断定的な言葉で危機を訴える専門家の方が使いやすい。SNSでも、慎重な分析より恐怖や怒りを刺激する発言の方が拡散されやすい。

こうして専門家とメディアの間には、互いの影響力を高め合う関係が生まれる。

いったん人気を集めた専門家の見解が誤っていたとしても、メディアは簡単には訂正できない。それまでの報道姿勢そのものが問われるからである。

専門家もまた、自らの誤りを認めれば、それまで築いてきた権威を失うことを恐れる。

その結果、予測が外れても前提条件を後から持ち出して正当化したり、議論の焦点をすり替えたりすることが起こる。

だが、予測が外れること自体は科学の敗北ではない。むしろ、間違いを認めて仮説を修正することこそ、科学の基本的な作法である。

問題なのは、専門家に間違いを許さない社会をつくりながら、実際に間違いが判明すると誰も責任を取らないという矛盾であり、まさに「先の敗戦」と同じことが起きていたのである。

必要なのは専門知識への盲信でも不信でもない

本書の批判は、ともすれば専門知識そのものへの不信を助長するものと受け取られるかもしれない。しかし、知識自体が不要だということではない。

感染症であれ、経済政策であれ、専門家の知見は不可欠である。ただし、専門家が答えられるのは、あくまで専門分野に関する問いである。社会全体としてどの程度のリスクを受け入れ、どのような負担を分かち合うかは、最終的には政治と国民が判断しなければならない。

専門家に判断を丸投げすることは、その責任から逃れることでもある。與那覇が指摘する「専門家依存症」の本質は、むしろここにあるのだろう。

日本社会に必要なのは、絶対に間違えない専門家を探すことではない。専門家の予測を検証し、間違いがあれば修正し、その過程を公開できる「空気」をつくることである。

戦争の時代からコロナ禍に至るまで、日本人は何度も時代の「正しさ」に熱狂し、その後には何事もなかったかのように忘れてきた。

しかし、過ちを認めない社会は、過去から学ぶこともできない。

『なぜ「まちがえた」と言えないのか』は、専門家やメディアへの批判であると同時に、彼らに自分の判断を委ねてきた私たち日本人自身への問いかけでもある。

次の危機が訪れたとき、また誰かの断定的な言葉に飛びつくのか。それとも、そんな都合のよい解決策などないと自分で覚悟を決め、間違いを認めながら判断していくのか。

その違いが、日本社会の将来を左右するのではないだろうか。そしてその将来はさほど遠くないように思えるのだ。

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なぜ「まちがえた」と言えないのか

【目次】
敗戦から81年後のまえがき
第1章 なぜ、信じたら疑えないのか 「専門家依存症」という病
第2章 暴走する自然科学 新型コロナウイルス禍の真実
第3章 機能しない社会科学 ウクライナ戦争の敗北
第4章 自壊した人文学 平成・令和の「歴史学ブーム」の末路
第5章 「答えのない時代」はいつ始まり、これからどう生きるのか
次の戦争に備えるあとがき

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