中国はなぜ『VIVANT』に怒るのか:娯楽まで政治化する大国のダブルスタンダード

中国メディアが問題視した「反中ドラマ」

TBS系ドラマ『VIVANT』第2シーズンをめぐり、中国の国営中央テレビ(CCTV)や共産党系メディアの「環球時報」が相次いで批判を展開した。問題視されたのは、中国系の架空の情報組織が日本側の工作員を拷問する描写だ。中国側は、旧日本軍による拷問を連想させる行為を現代の中国人に重ね、中国への敵意をあおっていると主張した。さらに、日本の海外での情報活動を美化し、「中国脅威論」を誇張していると非難した。

しかし、ここには奇妙なダブルスタンダードがある。

中国は日本のドラマが中国を悪役として描くことを問題視する一方、自国では日本を残虐な侵略者として描く抗日ドラマを数多く制作してきた。中国の歴史認識に異議を唱えることが目的ではない。旧日本軍の加害行為には歴史的事実に基づく検証が必要であり、それを否定する理由はない。

問題は、歴史を扱うことと、歴史を現在の政治宣伝に利用することを区別していない点にある。

中国の論理に従えば、外国の映画やドラマが中国の国家機関を悪役として描くこと自体が、反中宣伝ということになる。だが、フィクションの悪役が国家の公式見解を代表するわけではない。諜報機関が登場するドラマであれば、敵対する組織の非道な行為を描くのは物語の基本的な構造だ。それを現実の中国人全体への侮辱と解釈するのは、国家と国民、そして虚構と現実を意図的に混同する議論である。

VIVANT公式HPより

『ロッキー4』が映した米ソ冷戦

そもそも、こうした構図は今に始まったことではない。

1985年のハリウッド映画『ロッキー4/炎の友情』を思い出せばよい。主人公ロッキーの対戦相手であるソ連のボクサー、イワン・ドラゴは、科学技術と国家的な訓練によって生み出された無敵の選手として登場する。対するロッキーは、個人の意志と努力を体現するアメリカの象徴だ。米ソ冷戦の対立をボクシングのリングに持ち込んだ、きわめて政治的な娯楽作品だった。

現代の感覚から見れば、ソ連を冷酷な機械文明として描くステレオタイプも少なくない。しかし、当時の米国で、この映画をソ連国民への侮辱として上映禁止にすべきだという議論が主流になったわけではない。少なくとも、敵対国を描いたフィクションと、その国の国民全体に対する敵意は、原理的には区別できる。

もちろん、米国の映画産業が常に政治宣伝と無縁だったわけではない。ハリウッドにも愛国主義的な作品や、敵国を単純化して描く作品は存在する。だからこそ、批判の基準は自国に都合がよいかどうかではなく、表現の自由と歴史的事実に置かれるべきだろう。

娯楽を国家の宣伝戦に変える中国

今回の中国メディアの反応で、より注目すべきなのは、娯楽作品まで国家間の情報戦という枠組みで解釈していることだ。

中国では、国営メディアがドラマの描写を歴史問題や日本の安全保障政策、さらには「認知戦」と結びつけて論じている。そこでは作品の演出が妥当かどうかという批評よりも、作品が国家のイメージにどのような影響を与えるかという政治的な評価が前面に出る。

これは、文化を国家の管理対象とみなす発想の表れでもある。物語は本来、国家が独占するものではない。視聴者は作品を見て、登場人物の行動を評価し、ときには国家の公式見解とは異なる解釈をする。そうした自由な受容まで政治的な敵味方の分類に従わせようとすれば、文化交流の余地は狭まっていく。

問われるのは日本の情報機関への統制でもある

もっとも、日本側も『VIVANT』を単純な反中ドラマとして消費すればよいわけではない。自衛隊の秘密情報組織「別班」を英雄的に描くことには、国家権力と情報機関の統制という別の問題がある。海外で活動する情報機関が、どのような法的根拠と民主的統制の下に置かれるべきなのか。これは中国の批判とは切り離して、日本社会が考えるべき論点だ。

国家の安全保障を扱う作品だからこそ、国家の行動を無条件に正当化するのではなく、権力の限界も問う必要がある。

外国の批判に過剰反応する必要はない

中国の反応に対して、日本政府や放送局が過剰に反応する必要はない。架空のドラマの描写について、外国政府の歴史認識に合わせて説明や修正を迫られるようになれば、表現の自由は外交上の配慮に従属してしまう。

国際社会で自国のイメージを守る最も確実な方法は、あらゆる批判的表現を封じることではない。自国に不都合な物語が流通しても、それを一つのフィクションとして受け止め、事実に反する部分があれば事実によって反論することだ。

『ロッキー4』が冷戦の時代を映したように、『VIVANT』もまた、日中関係の緊張を映す鏡になった。だが、ドラマを外交問題に変えるかどうかは、作品そのものよりも、それを受け取る側の政治文化に左右される。

娯楽にまで国家の正しさを証明させようとする社会は、結局、自国の物語を信じる自由さえ失っていくのではないか。

コメント投稿をご希望の方は、投稿者登録フォームより登録ください。

コメント