日本は「昭和デモクラシー」で戦争に突入した

「民主主義はゴミが参加して劣化した」という宮台真司氏の発言が反発を呼んでいるが、これは彼が初めて言ったことではない。プラトン以来の西洋の歴史では、デモクラシーは衆愚政治という意味であり、アメリカ合衆国の独立宣言にも出てこない。

フランス革命でもデモクラシーという言葉は使われなかったが、ナポレオンがそれを「共和制」という意味で使い始めた。日本は大正時代にこの19世紀的な意味のデモクラシーを輸入し、「大正デモクラシー」という言葉が流行したが、当時は納税者(地主)にしか選挙権はなかった。

帝国陸軍―デモクラシーとの相剋 (中公新書)
髙杉洋平
中央公論新社
2025-07-23
★★★★☆

普通選挙の「昭和デモクラシー」

最初に成年男子に選挙権を与える普通選挙がおこなわれたのは、昭和3年(1928)である。デモクラシーを普通選挙と考えるなら、昭和デモクラシーと呼ぶのが正しい。第1次大戦で帝政が民主国家に敗れたのを見て、政府は総力戦体制としてのデモクラシーをつくろうとしたのだ。

普通選挙で巨額の選挙資金が必要になったため、政治腐敗が拡大し、各官庁の官僚や全国の地方官庁が政党に系列化された。新たに有権者になった小作人や労働者は政策なんか知らないので、誰でもわかる金銭スキャンダルが投票に大きな影響を及ぼし、議会はその暴露合戦になった。

政治がこのように「劇場型」になると、新聞の役割が大きくなった。初期の新聞はリベラルな姿勢で反軍的な論調を取ることが多く、1930年のロンドン軍縮条約までは軍事支出の抑制を求めて軍部と対立していたが、1931年の満州事変以降、戦争報道で部数を拡大すると、新聞は軍を美化する報道に転じた。

反軍的だった新聞が主戦論に転じた

腐敗して何も決められない二大政党に代わって「第三極」による「維新」運動が盛り上がった。北一輝や蓑田胸喜のような極右が青年将校を煽動し、クーデタが頻発した。大正デモクラシーは治安維持法や軍部につぶされたのではなく、普通選挙による政治の大衆化で自壊したのだ。

日露戦争までは、辛うじて伊藤博文や陸奥宗光などが、負けないうちに収拾して乗り切ったが、一般大衆はそう思わなかった。三国干渉に反対する暴動が起こり、ポーツマス条約でロシアから賠償金を取れなかったことに怒った民衆は、日比谷焼き討ち事件を起こした。

こうした世論に押され、日露戦争で得た満州の権益を中国に承認させようとしたのが、1915年の対華21ヶ条要求だった。これは日本人が中国政府の「政治経済軍事顧問」になることを求めるなど露骨な内政干渉だったが、日本の世論は熱狂的にこれを支持した。朝日新聞は強硬に「要求貫徹」を求め、大正デモクラシーの旗手だった吉野作造も、この要求に賛成した。

軍の首脳部は日本の戦力を知っていたので、1922年のワシントン軍縮条約では対米6割の海軍力で妥協した。これは日本の数倍の戦力をもつアメリカが戦力を抑制したものだったが、海軍は不満をもった。1930年のロンドン軍縮条約では対米6.975になったが、それでも野党は「統帥権の干犯」だと批判し始めた。

「民意」に従った戦争

そして1930年代の大恐慌の中で、こうした大衆の怒りは腐敗した政党政治に向けられ、彼らに同調するポピュリストの青年将校が首脳陣を突き上げ、石原や板垣征四郎のような強硬派が優勢になってゆく。この意味で、満州事変は、普通選挙のポピュリズムが起こした戦争ともいえよう。

張学良などの軍閥は満州で争わない方針だったため、「わずか1万人程度の関東軍が27万人の軍閥を破った」という勇ましい従軍記事が新聞を飾った。新聞は強硬論一色に塗りつぶされ、勇ましい従軍記事で部数を飛躍的に伸ばした。

関東軍の行動は政党政治を無視したものだったが、その行動を政友会は追認した。1932年に日本政府全権の松岡洋右が国際連盟を脱退したとき、国民は彼の帰国を横浜港で歓喜して迎えた。

戦争景気のポピュリズムが大政翼賛会を生んだ

このような政党政治が行き着いた先が、1940年にできた大政翼賛会だった。それはヒトラーのような独裁者の支配する組織ではなく、近衛文麿は優柔不断なポピュリストだった。大政翼賛会に真っ先に合流したのは社会主義の無産政党だった。他の政党が法的に禁止されたわけではなく、国民の圧倒的多数が大政翼賛会を支持した。

このように政党政治と軍国主義は対立したのではなく、普通選挙で堕落した政党政治から軍国主義が生まれ、国民は戦争が終わるまで軍国主義を支持した。デモクラシーが民意に従うことだとすれば、あの戦争はまさに民意だったのだ。

高市政権の補助金バラマキや減税ポピュリズムも、世論調査では過半数が賛成する。1930年代の日本も、最初は満州事変の勝利で沸き立ち、戦争景気で国民は昂揚した。戦時国債を償還してそれを抑えようとした高橋是清蔵相が二・二六事件で暗殺されたとき、昭和デモクラシーの暴走はコントロールできなくなった。

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