書評『「黄金のバンタム」を破った男』を読んで戦後ボクシング界を楽しむ --- 中村 伊知哉

アゴラ


「黄金のバンタム」を破った男 (PHP文芸文庫)

百田尚樹さん著。京都駅の書店でタイトルを見て、即買いしました。
だって、「黄金のバンタム」って書いてあるんだもん。エデル・ジョフレ。古いボクシングファンなら知らぬ者はない。史上最強の呼び声高いブラジルの王者。72勝50KO2敗4分け。


その2敗を記録したのがファイティング原田さん。以後、敬称略にします。
F原田の現役当時、世界チャンピオンは世界にわずか8人。現在は17階級、4団体に増え、70人ほどいます。値打ちが全く異なります。その中で、フライ、バンタム、そして不正判定がなければフェザーの実質3階級を制覇。フライ、バンタム両階級の制覇は今も原田一人しかいないそうです。今であれば6-7階級の統一王者と見てよいでしょう。日本人ボクサーとしてアメリカのボクシング殿堂入りを果たしているのも原田だけだといいます。一途で、努力型で、謙虚、誠実、明るい性格もあいまって、国民的な人気を誇りました。

本書は、F原田を軸に、白井義男からの戦後日本ボクシング界を描写しています。焼け跡から立ち上がり、権謀術数にまみれた世界の拳闘界の中で、根性と鍛錬と運で身を開いていく男たちの物語。そうですそうです、と確認しつつ、ゆっくりゆっくり読みました。

ただ、ぼくがリアルタイムで原田の試合をテレビ観戦して記憶に残っているのは、フェザーに移った晩年のこと。もともとぼくは原田のようなファイター型より、アウトボクシングのボクサー型が好きなので、スタイルとして余り印象は強くありませんでした。だから本書にうなづいた多くの記述は、後年ぼくが本やビデオで得た知識です。

最近はそれほど熱心に見ることはなくなりましたが、ボクシングは好きでした。ぼくが関心を覚えたのは、沼田義明、小林弘、西城正三、大場政夫、柴田国明といった世界に誇る日本人パンチャーが同時に王座を占めた1970年のころ。すぐ後に輪島功一が続きます。

そして、より熱を入れるようになったのは、1980年ごろ。アレクシス・アルゲリョ、マービン・ハグラー、シュガー・レイ・レナード、トーマス・ハーンズ、ロベルト・デュラン、サルバドール・サンチェス、ウィルフレド・ゴメス、アーロン・プライヤー……きら星のごとき中量級の天才ボクサーたちが世界のリングを飾った時代。

しかし、原田が黄金のバンタムを破ったのは、成長に沸き立つ日本、だけどまだ国際社会に胸を張りきれない日本、その期待を一身に受け止め巻き起こした奇跡として、当時の日本人にはとてつもない事件だったのでしょう。

読み進めながら、一つ一つをネットでチェックしました。すると相当マイナーな映像も今はアップされていることに驚きました。おおっ、この試合もあるか、と喜びつつ視聴したり本に戻ったりしていたので、1時間で読もうと思った文庫本は数日を要することになりました。

原田の師匠、「槍の笹崎」笹崎たけしとピストン堀口の世紀の対戦なんてのも映像が残ってるんですよ。ちなみにわが融合研究所の監事を務める金村公一長崎シーボルト大学准教授はプロボクサーの資格を持ち、リングネームを「しばいぬ公一」といいますが、笹崎ジム所属で笹崎会長の薫陶を受けた人でして、原田の弟弟子に当たるんですよねー。

本書はボクシングファンならずとも、戦い抜く男たちの物語として読者を引き込みますが、ぼくはどうしてもボクシング界のネタに絡め取られてしまいます。

同ジムの友人であるがゆえに、原田との対戦を避けるため、東日本新人王戦を辞退・棄権した斎藤清作の話が出てきます。引退後コメディアンになり、海に死んだ「たこ八郎」です。その新人王戦の決勝は、天才「海老原博幸」。協栄ジムの金平政紀会長と海老原、師匠一人に弟子一人でのしてきた。「あしたのジョー」の丹下段平と矢吹丈は、金平と海老原の二人をモデルにしていると記されています。へぇ、そうだったのか。

原田は白井義男さんがフライ級タイトルを失って8年後に戦後二人目の王者となりました。その間に立ちはだかった王者パスカル・ペレスに挑戦して敗れた、ないしは挑戦できなかったかたがたの物語もいい。三迫仁志は後に輪島功一を育て、米倉健志は柴田国明とガッツ石松を生み出したというのです。

そして矢尾板貞雄。長くボクシング解説者を務めましたが、本書はこの人を非常に高く評価しています。ボクサーとしても、人物としても。ペレスvs矢尾板戦はテレビ視聴率92.3%! 非公式ながら日本史上最高視聴率だということはぼくも役所の研修で知りました。矢尾板は本書の裏主人公たるジョフレ、そしてロープ際の魔術師ジョー・メデルとも闘ってるんですよね。

矢尾板がタイのポーン・キングピッチへの王座挑戦直前にジム会長との確執で引退し、その代役がF原田だったとの記述があります。そういうつながりだったんですね。1962年の原田vsキングピッチ戦、11ラウンド原田KO勝ちの試合を今回改めてYouTubeで確認しました。スリリングでシャープな試合です。

それよりも、本書に記されていたことが気になる。キングピッチは正しくは「ギンベッド」と発言するが、タイ語を英語表記する時に綴りを間違えて日本ではそう呼ばれているって話。キングピッチとギンベッド。ぜんぜんちゃうやん。それから、原田の前にキングピッチ戦に名乗りを上げた関光徳は女性ファンが多く、「ちあきなおみが芸能界に入れば関光徳に会えるかもしれないと思って歌手になったのは有名な話だ。」ぜんぜん知りませんでした。

同じくタイのジュニア・ウェルター王者、センサク・ムアンスリンが ライオン古山戦で見せたダーティー・テクニックの記述があります。ムアンスリン! 懐かしいなぁ。とんでもないボクサーでした。月曜の晩にYKKの提供でオンエアしていたキックボクシングの解説を務めていた寺山大吉が何かで話していたんですけどね。彼はムエタイからプロへ転向して3試合で世界タイトルを獲得。試合前もコーラをがぶがぶ飲んでゲップゲップしてて、試合中の口をすすぐ水もがぶがぶ飲んで、でもガッツ石松を6回KOで倒した後も元気すぎて、トルコ風呂を3店もハシゴしたんですって。今回調べたら、その後の暮らしがメチャクチャで2009年に亡くなったそうです。

さて、黄金のバンタム、エデル・ジョフレ。これが本書のクライマックス。1965年の原田戦もYouTubeで確認できます。4ラウンド、原田の右アッパーが有名だったので、ぼくは圧勝したんだと思っていました。僅差で、どちらの手が上がってもおかしくない試合だったんですね。翌年の2戦目は差が開いていましたが。

でもジョフレはすごい。その後73年にはフェザー王者に返り咲きます。その初防衛戦でメキシコの英雄、ビセンテ・サルディバルをKOしているんですよ。サルディバルは1970年に(ぼくが一番スキな日本人ボクサー)柴田国明と対戦し、柴田がメキシコで王座を獲得しています。しびれる試合。そのビデオをぼくは初任給の1/10を使い、渋谷の場末にあった怪しいビデオ屋で買いました。コロナビールのテレビCMがガンガン流れるこれぞ海賊版。今回それもネットで見かけました。いい世の中になった、と言っていいんですかな。

メキシコは同じ階級にすごいチャンピオンを生んでるんですよね。ルーベン・オリバレス。金沢和良との死闘は世界拳闘史に輝きます。かつてビートたけしさんが最高バウトに推していた対戦です。このビデオも若い頃ウラで買ったんですが、今回ネットでも見ることができました。カルロス・サラテもいます。ルペ・ピントールもいるんですよね。ルペ・ピントールといえば、引き分けた村田英次郎は3回も世界戦引き分けだぞ!

フライ、バンタムからフェザーへとコマを進めたF原田。ラウル・ロハスに照準を定めていたが、ロサンゼルスで無名の若い日本人、西城正三が破る大波乱。改めて68年の試合をYouTubeで確認しました。すさまじい試合であります。でも、西城が勝ち名乗りを上げたリング上に原田もいて、にこやかに祝福している。いい人なんだなぁ。

69年にシドニーで実現したジョニー・ファーメション戦は、ボクシング史上に残る明らかに不正なジャッジで、原田の3階級制覇は成りませんでしたが、世界のファンが認める実績です。「原田は27歳で引退するまで童貞だった。」と記されています。試合のたび十数キロも減量したといいます。甘いものを体に寄せ付けない。輝く業績は、修行僧も逃げ出す精神空間を生き抜いた証として残されているのですね。


編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2013年3月4日の記事を転載させていただきました。
オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。