地下鉄の中でメンコ遊びをする子どもを見て感じた事

加藤 隆則

上海の地下鉄でメンコ遊びをする子どもたちがいた。おそらく姉と弟だろう。日本と同じように、手にしたメンコで地面に置いた別のメンコをを直接たたき、ひっくり返れば勝ち、というルールだ。中国語では「拍紙牌」といい、読んで字のごとくである。日本語のメンコ(面子)は、漢字を読むと面子(めんつ)と混同するが、「小さな面」という意味である。

目の前の子どもたちが使っているメンコは、新聞や広告の紙を重ね、セロハンテープで固定してある。昔のおもちゃはもう売っていないのか。かりにあっても、キャラクター商品になっていて、値が張るのかもしれない。身なりを見れば、明らかに出稼ぎの家族だ。

父親はだまって見ているが、母親は身を乗り出して遊びに加わっている。車両には数人しか乗客がいない。私以外、だれも気に留めていない。地下鉄は昨年開通したばかりの11号線で、終点のディズニーランド駅に停まった。家族は列車を降り、エスカレーターに乗ったが、しばらくすると男の子があわてた様子で「メンコを落とした」と騒ぎ始めた。結局、見つかったようだったが、ディズニーランドとは反対の方向に歩いていった。

床にじかに座り込んでいるので汚いと顔をしかめる人、地下鉄でメンコをするのは公共道徳に反すると冷たい視線を送る人もいるに違いない。貧しい出稼ぎ家族の悲哀を読み取る人もいるかもしれない。ただ一緒に夢中になっている母親、それを眺めている父親を視野に入れれば、ほほえましい家族の風景になる。

拙著『中国社会の見えない掟─潜規則とは何か』(2011、講談社現代新書)のあとがきに書いたことを思い出した。

「二〇一〇年の春節、夕刻に見かけた光景は印象的だった。交通費が足りず、里帰りができないのだろうか、出稼ぎ農民の家族三人が路上で空き缶を高く積み上げ、その上を飛び越える他愛もない遊びに興じていた。日焼けした笑顔からのぞく白い歯を見ながら、民族が持つ底抜けの明るさを感じた。そうした民族の性格が、現状を追認し、被支配者に甘んじる歴史を繰り返してきたとしても、生活の芸術を根底から否定する論拠とするのは不当だろう」

物事を立体的に眺める視点を考える。文化の多様性、多元性を認め、尊重するためには不可欠な視点である。人は自分が属する文化の価値観や社会通念、あるいはいわゆる世論と呼ばれるものに縛られ、異文化への理解が点的、線的にとどまりがちだ。よほど気を付けていないと、独善的で、誤解や偏見に満ちた見方をしていることがしばしばある。

社会科学の方法論に、「トライアンギュレーション(triangulation、三角測量)」という考え方がある。ノーマン・K・デンジンが提唱したもので、データや調査者、理論、方法論の四つについて、それぞれ複数の選択を取り入れ、分析の精度を高める。自分の視点だけでなく、他者の異なる目線にも配慮し、国際関係を語る際も二国間だけでなく第三国の存在も視野に含めることで、多元的、複眼的な分析が可能となる。

残念なのはメディアに書かれているのはほとんどが点や線の平面にとどまっていることだ。記者は紙面スペースに限りがあることを言い訳にし、編集サイドは「読者にわかるように」を逃げ口上に使う。結局は安全なタコツボに閉じこもり、真相を見極める熱意と努力を惜しんでいるに過ぎない。中国語で新聞や雑誌などの紙媒体を「平面メディア」と呼ぶ。言い得て妙である。


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年2月26日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。