リスクは感情的に騒ぐのではなく、定量的に考えることが大事である。きのうのニューズウィークのコラムで「汚染水は薄めて流すしかない」と書いたら、予想どおり反発が来ているが、彼らは汚染水の放射線レベルを知っているのか。
汚染水の放射線レベル
上の図は9日の言論アリーナで東電の姉川常務が見せた図だが、最近では3号機の取水口でも100ベクレル/ℓ程度で、一般食品の環境基準も満たしている。これは取水口のレベルなので、外海に拡散すれば、ほとんど測定できない濃度になるだろう。だから他の汚水と同じように薄めて海に流すことがもっとも合理的な処理方法なのだ。
今のようにプラントが破壊されている状態では、地下水の流入や漏出は避けられない。それを「完全にブロック」しようとすると、発電所のまわりを氷の壁で囲んで冷却材を半永久的に循環させるというとてつもなく高価な対策が必要になる(それでもゼロにはならない)。
なぜ原子力だけが、このようにゼロリスクを求められるのだろうか。たとえば石炭火力発電所から出る廃棄物は、排気として外気に直接放出され、アメリカの調査によれば、この排気の放射能は周囲の住民一人あたり最大180mSv/年、野菜などに蓄積されるとその2倍ぐらいになる。他方、原発は3~6mSv/年ぐらいだから、石炭火力の放射能は原発の100倍以上である。
つまり原発だけがゼロリスクを求められるのは、廃棄物の量が石炭火力の数万分の一と小さく、すべて密封できるからなのだ。石炭火力に同じ基準を適用したら、何百万トンも出る廃棄物をすべて密封する巨大な処理場をつくらなければならず、運転は不可能になる。同じ意味で、プルトニウムより危険な重金属(毒性は永遠に減衰しない)が野ざらしになっているのに、核廃棄物だけに10万年後の安全を求める学術会議もナンセンスだ。
もちろん完全に密閉できるならしたほうがいいが、福島でそれを実現することは不可能であり、莫大なコストをかけても健康被害を減らす効果はほとんどない。国が汚染水処理に責任をもつのはいい機会だから、この際、ゼロリスクからリスクの最適化へと発想を転換してほしい。